月別アーカイブ: 2017年10月

「納得」の本音

清々しさを得られることが、納得の効用だ。

納得がいかないとき、好きなだけ食らいついても良いし、いっそのこと思い切って別な道を歩んでも良い。
納得に大切なのは、自分に対して、
「食らいつくなら、真逆の視点を持っても良いんだよ。」
「別な道を歩むなら、少し頭の片隅で今を齧っていても良いんだよ。」
と語りかけ、矛盾や妥協も時として認めてやるという点である。
物事を決断して行動に出る際に、ハードルを下げるとっかかりを得られるし、ちょっとしたことでは動じない余裕ができる。
この「許可出し」を、毎度毎度全ての物事に用いて、常に妥協する必要はない。
ふと気になったときに、自分をなだめるための気つけ薬として、気分に合わせてぼんやり繰り返せばいいのである。
イライラが募るときは、まず矛盾を認めて清々しさを得たほうが、腹落ちできてしまうんだよね。

「同調圧力」の扱い方

特定の空間や言論に、何らかの分析や意見や多様性や懐疑心を持つ自由がなかったとしよう。
そこには、あっという間に同調圧力が成立する。

・意見の発し手が、有名無名か否かは全く関係ない。
・更に言い切れば、有言無言か否かすらも関係ない。
・もしかすると、特定の分野や業界に凝り固まった習俗かもしれない。

このとき、同調圧力とは「ただの煽りのようなもの」でしかない。

対抗策は、以下のようなフローだ。
「そこに自由と余裕と知性はあるよね?」-> yes/no
臆見にまみれていないよね?別な分野を持ち込んでも大丈夫だよね?」-> yes/no
「そこに自由と余裕と知性はあるよね?(念のため、もう一度問うてみよう)」-> yes/no

これらが全てyesであれば、少なくとも同調圧力を回避するための仕組みが存在していると言える。

「少しばかり冗談を言える知性を回せる側」に立つといいんだよね。

「自分の頭で考える」の本音

「自分の頭で考える」とは、一定の基礎知識なしには不可能だと理解しよう。
これを欠いた状態では「下手の考え休むに似たり」でしかないのが実態だ。

ここで言う基礎知識とは、
「人文科学・自然科学・社会科学のいずれの基本にも立脚した知識」
ということだ。
(二文字で言い換えれば、教養ということである。)

基礎知識を軸に自分の頭で考えるための材料として、
放送大学のオープンコースウェア(公開講義)が使いやすい。

上記リンクの講義のタイトルやシラバスの内容から、
「これは具体的にどういった分野(●●学)だろう?」
「主にどういう本を読めばわかることだろう?」
という問いへのアタリがついて、自分で文献を調べ出して、
論じるリテラシーがあれば、その分野の基礎知識は特に問題ない。

上記のようなアタリがつかないのであれば、以下のフローでとっかかりを仕込もう。

・まずは自分の問いや需要に即した講義を楽しむところから始める。
・その際、事物や世の中への問いを持ち続けて、
上記リンクの描く分野に向けて手を出していくことを頭の片隅に入れておく。
・「そもそも何故この分野が存在しているの?」という、あまりにも愚直な問いから講義を眺める。
・途中で見るのをやめても構わないと思い込む。

少なくともこれで「へえ、こんな分野があるんだ」という感想を残せる。
アタマにアタリをつけておけば、イメージが残せる。

「自分の頭で考えること」のカギは、こういってアタリを付けて、
知識(=先行研究)に立脚することだ。

もし敢えて極論を投げかけたいというときにも、先行研究に立脚しよう。
その極論が面白いかダメかを品定めできるし、
面白く建設的な視点を追加するチャンスを作り出せるからだ。

それどころか、科学的に見えて非科学的だったり、
そもそも非倫理的・非人道的だったり、
ただの暴論や無知や釣りでしかない発言に対し、
「それって、先行研究に目を通していないだけでしょ?」
「ああ、チェリーピッキングってこういうことだよね。」
「統計学のリテラシーが無いだけでしょ?」
と、一言で喝破できてしまう。

「自分の頭で考える」のなら、まずはそれを唱えている人が、
・学問や大学や教育制度を建設的に懐疑しているかどうか
nani gigantum umeris insidentes を実行出来ているかどうか
という点を評価するといい。

日本語圏のウェブで、実名で議論(という名の自分語り)をしている人に、
どれだけこれができているかを評価してみるのもまた一興だよね

「校則のない自由な校風」の本音

校則がなく、自由な校風を誇る学校は、数もレベルも非常に限られている。

大多数に受験機会のある、高校に絞って考えると、
・私服通学OK
・頭髪規定なし
・そもそも法律に反しなければOK
という「校則のない校則」を持つ全日制の高校は、ごく一部だけだ。

この校風はもっぱら、

・伝統と特色がある(時として偏差値の序列から上にも下にも自由な)私立中学・高校
・国立大学の附属(中学)高
・有名私立大学の附属中学・高校
・地域の豪族のような公立高校や高専
という学校群に偏在している。

上記以外の99%の高校は、校則で制服が定められ、それどころか頭髪検査や持ち物検査が日常的に課される。

いかに「うちは自由な校風だ!」と自称しても、このようなフルスタックの自由があるとは限らない。

学校によって、自由に格差があること自体がそもそも憲法に照らせばヘンであるものの、現状では「選べる側」に立てるよう学ぶ以外に、この解決の手立てがない。

当たり前の自由を享受したければ、勉強に励んで権利を勝ち取るか、序列にとらわれない私学に進学するのみだ。

「大学受験もそれ以降も、自主・自律・自由にさせるなら、どの学校でも同じ結果が出せるようにしよう」と、腹を括るのみだ。

現に、偏差値の序列からもラディカルに「自由」な私立学校(「反受験産業」と言うべきレベル)から、世界ランキングで上から数えたほうが早い大学に進学するケースがある。これは進学率や数の問題ではなく「どれだけやり抜く人がいて、それを支える環境があるか」ということが重要だと痛感させてくれる。

実のところ、きちんと運営が出来ている自由な全日制の高校ほど、生徒も教師も荒れた状態とは無縁で、かつ知性的・理性的だ。

自由な場であれば、うまく噛み合うコミュニティが作れると同時に、党派性がない人が多数を占めるという特徴がある。

本当に自由な校風とは、群れない人を輩出する場のことなんだよね。

「想像力」の本音

ぼんやりした妄想を、具体的な概念に仕立て上げるチカラが「想像力」だ。

ただ混沌と想い浮かべているだけでは、現象にも像にならない。

ただひたすら現象や像を作るだけでは、無味乾燥で面白くない。

この二つを行き来して、自分と他者に明確に伝えてこその想像ということである。

これは生物の中で今のところ人間のみが行使できる特権だ。科学も文芸も言語も、想像力を現実化する媒体として古代から発展してきたと言える。
実のところ、何かを計画に落とし込んで実現させるなら、想像力に任せつつ知識を蓄積することが、一番楽しくて手っ取り早い方法だ。

脳内にある「こうだったらいいよね」という要素を、毎日少しずつ客観的に楽しく言語化する。かつ、何が足りないかを見極めて知識を溜め、「こうだったらいいよね」の言語化の精度を磨き上げるのである。

その際、基礎知識として、小学校・中学校・高校・大学・大学以降の全分野(=裏取りできる知識)を素直に活用するだけで良い。客観的な知恵として(教養として!)即時活用できる知識は、全てここにある。

その際、資格としての学歴ではなく、適切な知識に支えられた知的好奇心と行動力が重要であることは、もはや語るまでもない。

教養がもてはやされるのは、妄想や思いつきを現実に迎え入れる知恵にほかならないからなんだよね。

「舐めプ」と「舐める」への本音

「舐めプ」とは、圧倒的なレベルの達人への嫉妬の言葉だ。

物事や人を本当に舐めきっていては、「舐めプ」のような状況は絶対に実現出来ない。

舐めプが可能ということは、圧倒的な実力差と準備があることに他ならない。舐めくさった態度ゼロだとしても、手加減が「舐めプ」に見えてしまうことには注意すべきである。

これと逆に「舐めくさった態度」は、自分を大きく見せようとする余り、自分からしょぼくれに行く自滅の始まりに過ぎない。

無意識で舐めた発言をしてしまうとしたら、それは致命的な準備不足に過ぎない。

意識的に舐めた発言をするとしたら、中身のないヘナチョコが自分を大きく見せようとしているに過ぎない。

この態度は、立ち位置によっては「先行研究の無視」や「コンプライアンス違反」や「造反」や「人権侵害」する。

知性や品性が求められる立場の人がそうしようものなら、集中砲火を浴びて一発退場である。

フリーターだろうと、学生だろうと、サラリーマンだろうと、研究職や専門職だろうと、公務員や政治家だろうと、経営者だろうと、作家や芸術家や音楽家だろうと、舐めくさった態度は平等に見苦しい。どの分野の圧倒的な達人が鮮やかで美しくあることと同じくらい平等に。

圧倒的な準備の有無という点で、美醜は表裏一体というのが、何とも味わい深いよね。

「自作自演」の本音

自作自演とは、欲しい・望ましい場面や環境を得るために、徹底して自分でシナリオを組み、自分(たち)で演じ切る計画と実行のことである。

これはオーケストラもアンサンブルも舞台も映画も、それ以外の作品も企画もビジネスも、対人関係も勉強も、全てに共通して言える事実だ。

自作自演という言葉がケチくさく聞こえるのは、
・人を欺いて不正を働く手段
・ただのコピーアンドペースト
・自分の頭も体も使っていない
という、悪い意味でのズルがあるために過ぎない。

自分で欲しい場面や環境があれば、不公正なく堂々と自分から行動し、徹底して自作自演をみんなで楽しめば良い。

古典的な演目や、昔からある技術を再現して披露するぶんには、ケチ臭くないどころか、豊かな驚きの感情をもたらしてくれるよね。

「まとめサイト」の本音

まとめサイトとは「タブロイドのそのまた下層のタブロイド」に過ぎない。

既存のメディアと同じ特徴として、
・義務教育や高校レベルの知識すらおぼつかない下層で循環
・誇張された知性要らずの情報が大好きな人向け
という点が挙げられる。

他方、通常のタブロイド紙と異なる点として、
・「マスコミ」という言葉が大嫌い
・「偏向報道」という言葉をひたすら好む
・政治ネタを強者の側から戦わせることが大好き
という特徴がある。

これはいずれも、広告料収入や記事売上を得るためにやっていることだ。

このビジネスそのものが悪いわけではない。収入や売上の要素を除外すれば、既存のメディアで同じことを今までずっとやってきている

その実際は、昔の百貨店も、電車の中吊り広告も、ネット上も変わらない。

問題は、立ち居振る舞いや素行の悪さの再生産である。頭を使えない配信者に焚きつけられた、頭を使えない層が、本音で言いたいことではない情報を、繰り返し焚き付けられている点は、メディアとしては救いようがない。

せっかく日々読むのなら、自由につながるものを読みたいよね。

「自己内対話」の本音

知的好奇心があると、面白がるための自己内対話が止まらなくなる。

小賢しいと、嫌なことをごまかすための自己内対話が止まらなくなる。

この違いは、物事を適切にアップデートして、自分の頭で考えて向き合う姿勢の有無だけなんだよね。単なる受け売りや、行動が伴わない場合や、成果が出ていない場合は、小賢しさに要注意。

小賢しさとは「誰とも対話せずにいる」という独善に過ぎないから。

「非科学的」の本音

自然科学を扱う人が、「倫理や環境や社会や人間にフィットしない!」という指摘を受けることが多々ある。

この指摘は「非科学的」と断じられて、話題にすらされない。

これは「自然科学の議論のみで整合性が取れているため、それ以外の都合は含む必要がない」という閉じたロジックだ。ここに疑問を抱くならば、この自然科学の議論に関わるヒトやモノやカネの思惑が、どこを向いているかを見てみるといい。

誰がどこに向けて何にいくら投資しているか、という事実は、社会科学の話題だ。

倫理的か否か、公正か否か、問い尽くしたか、という問いが生じるなら、人文(科)学の話題だ。

自然科学の成果を具体的な仕組みとして世に出すには、人文科学と社会科学も含めた「懐疑心と知的好奇心によるジャッジ」が不可欠である。これが欠けた自然科学とは、ただの強引な営業活動でしかなく、「科学を非科学的に押し付ける」ということになる。

そもそも、人間と社会の下支えなしには、科学は発達しようがない。知識に則って断じるだけの暗記は、科学ではない。

知識を総動員したにも関わらず、「非科学的」と断じた先の行動が、ただの営業活動というのは、笑えない冗談だ。

とある科学者の冗談好きのエピソードや発言くらい、科学に関わるなら当然知っているはずなんだけどね。