月別アーカイブ: 2018年3月

「一期一会」の本音と扱い方

一期一会とは、普段の思いつきに関して「しまった!忘れた!」となる状態を防ぐための言葉だ。

書くことやアイディアを持つことや、ブレイクスルーを狙うことについては、特に重要である。

それはなぜか?
些細な思いつきを日頃から蓄積し、それを元手に、日常の風景からアイディアを獲得し放題であるためだ。

諸々に集中して取り組むことは悪いことではない。
しかし、クリティカルに(限界を突破するために)思考と行動を巡らせるには、かえって邪魔になる場合がある。現在の集中を、一旦別な視点からぶった切る必要があるのも事実なのである。

また、無為に忙しく過ごしてしまえば、寄り道の余裕すらなく、閃きは遠く彼方に置き去りにするしかない。 それどころか、閃きという感覚や概念そのものを、頭から追い出してしまいかねない。

このとき、日常で気づいたちょっとしたことや、ふとした閃きなどは、「絵空事じゃないか!」と断じてしまい、結果的に自分を騙してしまう。

一面的な物事にしがみつくことを面白いと感じるなら別だとしても、ふとした閃きから、悩みが氷解する瞬間はこの上ない快感だ。したがって、不用意に物事を「絵空事だ!」と断じることは、もったいない。

悩みは尽きずとも、瞬間の出会いから、成長の機会を自分で作れるんだよね。

「食わず嫌い」の扱い方

「食わず嫌い」による否定や肯定はもったいない。
もったいないどころか、逸失利益にもつながりかねない。

一度でいいから体験し、その上で「こりゃダメだ」と思ったら撤退・回避していい。
新しい光の当て方が見いだせたなら、堂々と挑戦・関与・傾倒すればいい。

そのためにはまず、「食わず嫌い」の対象をわざと回避せず、「ありえない!」という言葉を自分でつい言い放ってしまうような動作に、こっそり取り組んでみるのだ。

どんな些細なことでも、あるいは99%の人が成功する他愛もないことでも、意図的に堂々と失敗すればいい。非常に苦々しく嫌悪感を抱く人や物事について、良いところや可哀想だと感じるところを見出してみるといい。

普段全然やったことのない動作を試したり、書店や図書館で全然興味のないジャンルの本に触れてみてもいい。今までにない別ルートを意図的に(かつ無理なく)設定すればいいのである。

このとき、時間を自分でコントロールできる範囲に限定することを忘れないようにしよう。この枠内に限定すれば、わざと失敗したり「こりゃダメだ」と思って撤退する余裕もでき、食わず嫌いで疲弊してしまうリスクを減らせる。

「食わず嫌い」を感じた物事に、「ここは良い」「これは参考になる」という部分が見つかってくれば、上出来だ。良い部分だけを掬いとって、楽しく活用すればいいだけなのだから。短期的にも、中長期的にも、良い部分を掬い取るという発想を持っていれば、これが後にジワジワと生きてくる。

同様に、嫌悪感や苦手意識は、無理に克服するのではなく、別ルートを見出して瞬間的に付き合うだけでいい。

食わず嫌いを超えて、別ルートから薄く塗り重ねることで、自分の視点を意図的に(かつ思いがけない形で)広々と深めることができるんだよね。

「知識人が出なくなった」の本音

日本において、知識人や知の巨人が出なくなったと指摘され続けている。

80〜90年代で、そんな層の輩出が止まってしまったと言われて久しい。多数派とまでは言わずとも、現に「自称学者(実態はサラリーマン)」があまりにも目立つ。

この実態は、日本の大学の学士課程の教育が、根本的にアカデミックスキルを欠いていることに起因している。

「現行の日本語圏の教育(と教育産業)が薄ぼんやり作った、なんとなく存在する市場」に、圧倒的多数が無批判に乗っかっているだけに過ぎないのが、大学教育の実態である。

この、あいまいで薄ぼんやり存在する非効率な市場では、何が起こっているか。日本語圏の市場で扱われない、あるいは非常に扱いづらい物事は、すべて無視されているのである。

例えば美術、音楽(特にクラシック音楽)、西洋古典、そしてアカデミックスキル(議論、プレゼン、論文作法、網羅的なリサーチ)あたりは、日本語圏で成立したものではない知性だ。

現代の関係者がどこかで扱いづらさを感じているためか、薄ぼんやりとした無視の対象としてしまっている。これが現状だ。

「各分野を先行研究として横断的に知っていて、更に掘り下げていける」といったような、アカデミックスキルを扱える層は、今や日本にほぼ残っておらず、絶滅しかかっている。

ふた昔前までは、プログラム化せずとも「自分と向き合う教養主義」が成立してきたので、問題視されなかった。

現状の大衆化・多様化した大学は、そういった善意の俗人化は、そもそも成り立たなくなってしまっている。この事実の無視や不理解が、日本の大学教育が上手くいっているとは言い難い現状を、そっくり映し出しているのである。

現実的に言い切ってしまえば、「世界中の知識層が持つにも関わらず、日本語圏でそういったスキルを育てる仕組みも意図もない」のである。育てる気がないのであれば、知識人なんて育ちようがない。

ヒエラルキーを突き破るための発想も、ビジネスの構築をするスキルも、アカデミックスキルが当たり前のようにカバーしている。この下位互換として、なんとなく存在する「ビジネススキル市場」が、世の中に漂っている。

このことに気づければ、実は知識人としてもビジネスパーソンとしても、堂々かつ淡々と活躍出来るんだけどもね。

「ルール」の扱い方

ただ単に「はい、自由にしていいですよ」と言われて、自由になれる人はいない。

かといって「さもなくば自由を奪ってしまえ」という発想は、人間であることに反する。
では、自由とはどのように成り立つのか?

このような問いが立ったとき、「ルールや指針に通じることで、自由を享受するヒントが与えられる」ことを意識するといい。

目先にある物事に囚われてしまい、キャパオーバーに陥る状態は、無駄を省くルール作りが甘いのである。自分が明らかに正しいにも関わらず、怒り心頭にさせられてしまう状態は、関わるべき場面や話題を選ぶルール設定がないのである。どうでもいいことに感情を引っ張られる状況は「時間と思考の使い方のルール設定が必要だよ」と知性に誘われているということなのである。

そもそも、ルールを知らない状況というのは、致命的だ。
スポーツであれば、ルール知らずはろくにプレーすることもできない。ボールの投げ方やバットの振り方はおろか、どちらの塁に進むかさえわからなければ、草野球すら成り立ちようがないのである。

振り返って、社会で生きることはどうか。
民法すら知らない状況では(最近では規則が整備されたものの)賃貸契約で退去時に知らずに不当請求を受けたり、不利な契約を結ばされたりと、目を覆いたくなるくらいひどい状況まっしぐらだ。

ルールを活用できることとは、自由と無法の違いを理解していることだと言っていい。

(補遺)
道徳ではなく、民法と複式簿記と哲学を一揃えで小学生から必修科目にすればいい。
お金の記録のルールを知ると、確実に算数が楽しくなるんだよね。

「疲れ」の扱い方

「疲れたけど良い経験だった」と思えるような疲れは、安眠を誘う。
「嫌々やらされて、不安と疲弊が募った」というような疲れは、昼夜問わず悪夢だ。

嫌な疲れを回避するには、まず以下を心がけてみるといい。
・不快感の源には近寄らず、一切反応しない。
・人の不快を誘う言動やいじりは、カッコ悪いので絶対やらない。
・ネガティブなことは「ああネガティブだなあ 笑」と爽やかに笑い飛ばす。
・どうしても嫌な状況と向き合うなら「新たな情報や視点に基づき、爽やかなインサイトで、全面上書き保存するチャンス」にだけ集中する。

嫌な疲れの回避策でなく、より前向きに良い疲れを探ろう。
「カッコいい!」「すごい!」と思わず身を乗り出してしまう態度や発想が全てである。
そのように心が突き動かされた言葉や発想だけに囲まれ、そうでないものは次々と触れないようにしていけばいい。

「これをやったらアウトだよね」
「でも、これくらいなら大丈夫だよね」
「待った、これはさすがにアウトだよね」
こんな葛藤があるとしたら、それはチャンスの証だ。ともすれば身をやつしかねない葛藤で、疲れを吹き飛ばすにはどうすればいいか?

葛藤一つ一つをデータとして並べ、どれを取ってどれを取らないかを厳選し、一挙手一投足や発言や思考について「カッコいい!」という組み合わせだけを残せばいいのだ。

実際のところ、身を乗り出して関わってしまう物事や発想に、常識的な説明などいらない。他人や自分の基本的人権や自由を奪わなければ、それでいい。

嫌な思いをしながらせせこましく反抗に追いやられることは奴隷の始まりに過ぎず、常識から逆算してドキドキしながら常識破りの計画を練ることは自由の始まりだ。疲れるなら、自由のために疲れたい。

ここまで発想と行動を巡らし切って疲れたら、いい夢を見て、いい現実に出会えるんだよね。

「駄作のアウトプット」の扱い方

自分の作品や発言やアウトプットを「駄作だ!」と断じてしまうことは、佳作のタネや芽を踏みにじることだ。

「駄作だろうと何だろうと気にせず出せ!」というひたむきさは共感できるが、もっと冷静沈着な発想がほしい。

そんなときは、「駄作をアウトプットすることとは、ランダム(無作為、偶然)を作る、知的な自作自演」と思っておくくらいでちょうどいい。

例えば「自分で自分が何をしたいのか、すべきなのかわからない」というような、答えのない根源的な問いがあったとしよう。そんなときこそ、しつこく繰り返し、時に適当に、でも形を変えながら「何がどのようになぜわからないか」を何度も何度も表現すればいい。

えがない問いについて、その場での答えを素直に切り出す行動は、それだけでただ尊い。切り出すことを通じて、自分に無かった視点を得られるからである。アウトプットしたおかげで、思わぬ偶然が得られたら、心のうちでガッツポーズをすればいい。

就職や転職の面接だろうと、相談に乗ることや乗ってもらうことだろうと、
論文や作品を書く・描くことだろうと、いずれも「物事を資材のように切り出して伝える表現」という点は共通している。

それぞれルールや要件や技術は異なるが、制約のある中で的確に表現し、他者と共有し「こんな考えもあったんだ」「こんな場があったんだ」というマッチングを誘発できれば、それでいい。

稚拙な表現や失敗作を、100回でも1,000回でも10,000回でも重ねて成長し、世紀の大発見と言えるアウトプットが1つでも成立したなら、それだけで万々歳だよね。

「世代交代」の扱い方

「亀の甲より年の功」という言葉がある。

大きい組織や集団においては、「年の功より世代交代」が100%正しい。
そして世代交代とは「頑固さをなくすため、老害とサヨナラする」ことに他ならない。
水が淀んでしまえば、新陳代謝がなければ、人も組織も時代の流れに上書き消去されてしまう。

新しさや荒削りや温故知新の前には、頑固さはただ上書きされるのみである。自分から書き加えるのか、他人から書き込まれるのか、どちらがいいかという話である。

明日ありと 思ふ心の 仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは
とは、親鸞聖人が9歳のときに詠んだとされる歌だ。伝説のごとき歌であるが、詠んだ年齢と示す内容の二つの文脈から、世代交代を象徴している歌だと私は解釈している。

所変わって、クラシック音楽家や演奏家や色々な表現者さえ、幼少期や青年期から傑出する人に対し、どこかで戦々恐々としている。特に中間層にはそのような空気が蔓延している。老いてなおパワフルなマエストロ(巨匠)は、育てる側に回ってしまうから別だけれども。

要はどの分野であれ、仮に今が安泰だと思えても、明日には風の一吹きで散り果てかねないのだ。

この際だから、はっきり言い切ってしまおう。
コスト管理もろくにできない天下り元役人が組織に居座るなら、直ちに切ろう。
新卒採用なら一発で不合格になるような、喋り方や考え方がモゴモゴして当を得ない管理職は、直ちに切ろう。
外資企業になった瞬間、カルチャー変化に対応できないサラリーマン管理職は、秒速で切られてしまっていることを知ろう。

この例に限らず、非効率を発生させている層は、明らかな「老害」だ。共通点は「日本で年功序列を経験した50代かそれ以上の層」である。この記事を読んでいる幸運な方は、眼の前で語る人が老害か否かを、上で示したように見定めよう。

どんな場面であれ、しれっとした顔で徹底的に見切りをつけよう。 老害と感じたら、素直に「老害だ」とタグを付けてしまう勇気を持つだけでいい。 その対象は、実際に会った人でもいいし、面接でもいいし、親族との会話でもいいし、国会中継の動画でもいい。

この勇気を持つには、徹底的に学び続けることが求められる。最初のうちは、学ぶ理由を「しれっとした顔で古さに見切りつけるためだ」と言い切ることも、工夫の一つだ。

いっぽう、「老害と言われるのは嫌だ!」「切られたくない!」と感じる人はどうすればいいか。

対処は簡単だ。ここまでで述べてきたことに素直に手をつければいい。自ら老害であることをあっさりやめ、どこかのタイミングでマエストロとして育てる側に回ってしまえばいいのだ。

明日ありと 思うトロロの 麦ごはん 今にアタシが 食わぬものかは
とは、六代目三遊亭圓窓師匠の創作落語『明日ありと』に出てくる、先に挙げた親鸞聖人の歌のパロディだ。

氏は40歳過ぎでパソコン通信に関わり、59歳でウェブサイトを持ち、今では育てる側にも回っているんだよね。

この事実と、このパロディから何をつかんでどう動くかは、あなたのフレッシュな面白がり方次第だ。

「違和感」の扱い方

違和感を抱いたら、新旧のインプットから、行動とアウトプットにつなげるチャンスだ。
自分の解釈や知識の組み合わせを、さっさと一次資料として表現してしまえばいい。

コメントであれ、論文であれ、文芸や詩歌であれ、マーケットレポートであれ、絵画であれ、音楽作品であれ、サービスであれ、愛の言葉であれ、苦々しさであれ、それらをリリースすることに注力するだけだ。

そもそも、何らかの違和感をついつい心に抱くこととは、アウトプットすべきエネルギーを獲得したことに他ならない。これを放置すると、溜め込んで爆発してしまう。この現象は、一見すると困り物だが、本来は生き生きとしていることの証なのだ。

これと逆に、違和感から行動やアウトプットをついつい強いられ、疲労の極致で空っぽになることもある。この場合は「強いられずに休み休みやろうよ」というメッセージだと受け取るくらいでちょうどいい。

物事にはあまねくサイクルがある。「ただただひたすら動く」のではなく、「動いたら休む」「休んだら動く」という、当たり前のことに従ってみるだけでいい。迷ったときならなおさら。

このサイクルから「世界は表現されていないものだらけだ!」と気づけたら、違和感が面白くなるんだよね。

「意識高い系」の扱い方

「意識高い系」で、素行や知見に疑問がある層は「知識低い系」とでも思っておけばいい。この層の存在は、知識回収で代替できてしまうからだ。

「意識だけが高い層」のチェック項目はこんなところだろう。
・孤独を楽しんでいるか?
・忙しさに逃げていないか?
・取り巻きはどれくらいいるか?いたらどういう層か?
・立ち居振る舞いや発言内容を真似したくなるか?
・他者の知見を鵜呑みにせず、知識を集めて合理的に議論を組み立てられるか?
・「自己弁護や誤魔化しや知識のなさ」と「文化資本に応じた独自の世界観」とを混同していないか?
・一定レベル以上の学習歴(特に古典・外国語・数学/自然科学・法律…)はあるか?
・アカデミックスキルが欠け、試験対策文化に逃げていないか?

着実に成長し、知見を残せる材料を獲得していれば問題ない。そうすれば「意識(だけが)高い(=ただし立ち居振る舞いは醜い)」という状況にはならない。

対象のスペックが読めるまでのレベルに達したと感じたとしよう。そこまで成長したならば、それは自由の始まりだ。これと逆に、知識ではなく意識にばかりとらわれて、自己弁護に走る層は、そもそも自由に意思決定できるほどの基礎を持っていない。

これは、人間が自由を楽しむにあたって、一番のリスクである。貴重な時間を何に費やすかは自由だけど、知識と知見に基づいた自由意志で決めていきたいよね。

「ヒエラルキー」の本音と扱い方

ヒエラルキーは、目に見える後天的な要素に思われがちだが、実は物事が始まる前からとっくに決まっている。

階層に応じ、扱うボキャブラリーはおろか、発想や思考・嗜好からして根本的に異なる。
それは大学のレベル差かも知れないし、扱える言語(数学含む)の多さかもしれないし、スポーツや芸術の経験の差かもしれない。

与えらえたヒエラルキーをボンヤリと見過ごし、知的体力の不要な漂い方を繰り返してしまうと、ヒエラルキーに従う以外に道がなくなってしまう。ただし、ヒエラルキーにそのまま従っている人は、自分がヒエラルキーに無言かつ盲目的に従っていることすら(時にそれで傷ついていることすら)気づかないのだけれども。

このヒエラルキーを突き破る唯一の手段は、常識に屈さない知的体力だ。これは、網羅的でナラティブであり、自分自身や扱う分野の限界と常識を突破するための、瞬発力と柔軟性と持久力だと言い切っていい。

この知的体力とは、試験対策だとか、戦略コンサルタントのロジカルシンキングだとか、あるいはそれよりレベルの低い物事を全部含んでいる。これら実務で行う程度のことは、知的生産の落とし子に過ぎない。

まずは、ヒエラルキーに痛いほど気づこう。そして自分に足りないものと毎日向き合おう。

ヒエラルキーに気づけて、初めて状況に風穴を開けられるんだよね。