月別アーカイブ: 2018年11月

「我慢」の照らし方

大多数での同調圧力から来る「我慢大会」に参加させられる理由はないけれど、

楽しく充実して目的を果たすために「修行としての我慢」を自発的に行う局面は大事だ。
例えば、ほどよく負荷がかかるようにうまく設定した筋トレは、気分が良くなる自発的な我慢である。
当然ながら、ペースを無視したり、合理性を欠いたりすれば、
それは見るに堪えず、心身を害してしまうことになりかねない。
個人的には、「スポ根」だとか「ありがちな厳しいだけの吹奏楽部」のような発想は、
頭を使わない我慢大会の押し付けという無駄な努力としか思っていない。
そんな状況に関与する必要はない。
それでも、ここぞと言うときに敢えて瞬間的に自分から痩せ我慢することには価値がある。
その先で壁を乗り越えるという、ある種の清々しさや美しさや快感があるためだ。
状況や気分を根本から変える上で、一瞬だけ我慢するという仕組みを、
少量のスパイスとして使えると、思考の血の巡りが良くなるんだよね。
ニンニクと同じで、摂りすぎには注意だ。

くじゃくは飛んだ。

『くじゃくは飛んだ』とは、ハンガリーの作曲家コダーイ・ゾルターンによる変奏曲として広く知られる。

ハンガリー民謡の歌詞と楽曲を元に、国民的詩人のアディ・エンドレをしたため、
コダーイが民謡を変奏曲に仕立て上げることで、第二次世界大戦時の圧政に対する抗議を行った。

さんざん聞いたこの曲から教わったことは数限りないが、
特に言えるのは、作品を作り続ける音楽家や文学者や芸術家は、
権力に対して堂々と抗議していいという点だ。

税金から報酬を受け取る公人の分際で、民衆の抗議を聞こうとしない政治家は、
一発で永久追放に出来るシステムを用意してしまえば事足りる。
それが嫌だと言い出すなら、税金から拠出して国境線にでも住まわせておけばいい。

芸術は自由のためにあると常に言い切り、
自由のためには「聞いたことがある」を掘り下げ、
事実をかき集めながら想像を膨らませていく。

表現したりものを書いたりすることで、心の自由が担保されるとすれば、
それは「思考の整頓・抗議・表現の置かれた文脈」の3つが、
効果的に機能するからこそなんだよね。

「論理的」の照らし方

論理的であることを優先するあまり、人間の存在を軽視してしまうことが多々ある。

論理とは人間が作った仕組みに過ぎない。そんな論理という道具を扱うのは、もともと感情的であり、過ちも犯す生き物である、人間だ。

この事実を忘れてしまうと、論理が成り立っていない状態を「論理的」だと誤認してしまう。

仕事でイラついていたり、周囲との人間関係が悪化していたりするとき、
あなたがいかに論理を振りかざして正論を言おうとも、
論理的な結果を得ることは非常に難しい。

このとき最も愛でるべきは、非論理的な人間の本性だ。
瞬間風速的であれ、中長期的であれ、何らかの誤解や非論理的な要素は、誰しも生じうる。

そのように感情をセットして準備し、おおらかに立ち振る舞うほうが、
実は論理的に状況を網羅していることになるんだよね。

「需要」の照らし方

誰かから「欲しい」「読みたい」「話を聞きたい」と求められれば、そこには需要がある。

どこでも入手可能な換えのきく商品やサービスや、
値段で選択基準が変わる商品やサービスや、
実際に必要性の生じているプロダクトをスキマを縫って出すケースや、
あるいは家族のように情が介在する関係の場合を、
例外ケースとして需要から差っ引いてみよう。
このとき、需要が湧き出て来るためのチカラとは、
「どうしてもこの人・このモノじゃないと嫌だ!」
という言葉の裏にある、価値や想いやメリットや感動だ。
これは、究極的には単なる主観だ。
需要について、ゼロをイチに持ち込むことが難しいのは、
見ず知らずの他人に主観的な思い込みを抱いてもらうである。
「私のことを気に入ってください」と1万回唱えたとしても、
実際に気に入ってもらえるわけではない。
だからこそ、求められるものを出すことには凄みが必要になるし、
求められる現象がふと出てきてマッチする状況は凄い。
ふと出てきた小さな需要は、仮に「待ってました!」という準備が環境にあったとしても、
実際に出てきてしまえば、偶然生じた一つの小さな独立事象だ。
そう思って、いろいろな出来事の凄みを噛み締めながら試行するくらいでちょうどいいんだよね。

「記憶は再構成される」の照らし方

記憶は再構成される(=映像のように残るものではない)という知見がある。

この見解は、ノーベル生理学・医学賞を1972年に受賞したジェラルド・エデルマンに遡っても同様だ。
この知見で日常を照らすとしたら、
・欲しい知識や経験を少しずつしつこく入れ込む
・嫌気のさす物事を明確化して避ける
・残したい物事だけを厳選して記憶を集中させる
という動作が適切だろう。
記憶に再構成される特性があるのなら、記憶の周辺まで再構成しておくくらいで、ちょうどいいんだよね。

「現実」の照らし方

「何を知らなかったか知る」だけで、現実を押し広げることが出来るんだよね。

「知識回収しよう」と繰り返し述べているのは、ふと知った一つの知識から思いも寄らない突破口が出てくるからだ。
「ネットで何でも調べられるようになり、知識そのものの価値はほぼゼロになった」
という声が繰り返し聞こえるが、これは実はウソである。
実際は、テンプレート知識や資格だけで生きていた人の価値が暴落しているに過ぎない。
知識を組み合わせ、仕組みを現実に落とし込むことが出来る人の価値は、うなぎ登りである。
このような「知的生産」は、昔も今も知識層だからこそ出来ることであって、
大多数はネット検索が出来ても付け焼き刃すら組めないのが事実だ。
自分から企画を立てて動くほど、このサイクルが現実で強みを帯びてくるんだよね。

「堂々巡り」の照らし方

物事を上から眺め下ろせない状態と、人の振り見て我が振りを直せない状態。

物事についてまとう不安がこの2つをもたらし、堂々巡りを作る。
「不安を元ネタに、物事の取扱説明書を客観的に書く」
という逆転の発想が出来ていれば、実は堂々巡りを防げるんだよね。

「感情的になる」の照らし方

感情的になることが悪いわけでは決してない。

感情からは逃げられないから、堂々と感情を見渡したほうがいい。

負の感情を強要してくるチカラが存在しているとき、
「それがどこから来て、自分をどう通り抜けて、どこに向かって行くのかがわからない」
という状態が、単に辛いというだけなんだよね。
見えづらく煮え切らないものがあったら、
全然違うルートから知識や言葉で一刺しして、流れを見直してみよう。
感情を作り出すストレッサーがどこにあるかを、一方的に定めずに捉えられれば、しめたものだ。

「ピンチ」の照らし方

ピンチに追い込まれたときほど、その人の本音や正体が噴出する。

ピンチのとき、冷静さを欠いて当てはめた知識や発想が、
こじつけや後付けだったり、精彩を欠いていたりするのは、
感情が知識を歪めていることを自認できていないだけだ。

「ピンチのときほど、冷酷な視点を持ったほうがいい」という発想は、
ピンチの渦中にある自分自身を徹底して客観的に眺め尽くして、
そこから次の一手を決めてしまうことに他ならないんだよね。

自分を盤上の駒として眺められるならば、
何が自認できていなかったかを自認できるんだよね。