「壁」という言葉には、「壁を乗り越える」とか「壁を壊す」という、勇ましい動詞がついて回ることが多い。

「壁そのものが悪いわけではないのに...」「心の壁って自尊心なのになぁ」と思いつつ、小さいころ読んだ『かべかべ、へい!』という、アマゾンにすら引っかからない絵本を思い出してしまう。

勇ましい動詞がついてまとう、壁のような何かは、「ハードル」とか「バリア(障碍)」とでも呼ぶべきなのだろう。





いっぽう、ものごとを面白く生きるにあたって、「壁のような何か」の向こうに行けないのはツマラナイよね、とも感じる。

「壁を壊す」のか「壁を乗り越える」のか、「壁にドアを自作する」のか、はたまた「実は壁なんてなかった」のか。

どのパターンかはさておき、「どうやって壁らしきものをすり抜けにして、次のエリアに進むか」つまり「どうやってものごとのハードルを下げるか」を考えてみるとしよう。





ものごとを知るにせよ、好きか嫌いになるにせよ、何かしらを感情に抱いたり行動に移すには「とっかかり」がないことには何も始まらない。

この「とっかかり」とは、コンテクスト(文脈)からくるものである。

コンテクストの重要性については、平田オリザ『演技と演出』に詳しい。


「とっかかり」は、例えば扱うものごとが知識であれば、漫画や音楽や芸能といった娯楽であったり、歴史や科学や数学であったりと、その姿形は場面によって全く異なる。





「とっかかり」を得る上でポイントとなる点が二つある。
・「受け手の理屈」で拾い上げられる情報の断片
・「発し手の理屈」で存在し続けている情報の断片
である。

娯楽を基準に掘り下げると、
例えば「この作家さんや作曲家さんや俳優さんや声優さんや監督さんや指揮者さんが好き!」
というのが、「受け手の理屈」だ。

いっぽう「この作家さんは、世に出る前にこんな作品を出していて、この漫画家さんと仲が良かった(というような受け手にとって未知の情報)」
が、「発し手の理屈」だ。

この二つの理屈の後ろには、情報の断片が溢れており、その選び抜き方で「とっかかり」に何らかの壁が生じる。

この壁を超え、「え!こんな面白いつながりがあったんだ!」と感じ取ることが、世界を広げることのできる面白い学習というわけだ。






具体的に見ていこう。自分の場合は、楽器の演奏から(かつディズニー映画のサントラやゲーム音楽を聴くカジュアルさで)クラシック音楽にのめり込んだ。

サントラ
1987-11-10



ゲーム・ミュージック
1990-03-13


これが「受け手の理屈」である。

ラヴェル作曲の『ダフニスとクロエ』は、何度聴いたかもう覚えていない。


ここで音楽ばかりで止まってしまうといけないので、もうすこし気を遣いながら進もう。

『ダフニスとクロエ』には原作があり、また同作を底本とした日本文学が存在する。



三島 由紀夫
2005-10


また、作曲者のラヴェルがどういう人で誰と交流があったか、他にどんな作品を書いているか、ということについても知ると、広がりが出てくる。

ジャン・エシュノーズ
2007-10-20


オムニバス(クラシック)
2005-03-23


この未知の情報(今となっては既知なのだけども)が「発し手の理屈」である。

とっかかりをつくって、コンテクストを知り、ものごとを学んで広げていくとはこういうことだ。順番は自由で構わない。






自分で体験でき、いろいろな角度から追いかけられる学び方でなければ、実のところ何も意味がない。

これと逆に、受け手である人が、発し手のコンテクストを知らなければ、世界は広がらないままである。

また発し手は、受け手の想像力や興味関心を、根本から呼び起こすことをいくらでも無視できてしまう

ひどいケースだと、「一方的に発し手が質の低い情報を垂れ流すだけで、受け手は金と時間だけを巻き上げられて終わり」だ。

この場合、二言目には「は?つまらない?受け手が努力しない無能なのが悪いんだろ?」と言われてオシマイ、という状況にさえ陥らされてしまう。

残念ながら、全てとは言いたくないものの、資格試験やお受験の予備校はこの傾向にある(教育産業全般が、不確定要素たっぷりの「試験の合否」を扱うため、不可避なのだが)。

最も悪質なものは、出典を示さないビジネス書や、情報商材である。こちらはまったくもってお話にならない。





話を戻そう。

「とっかかり」が得られないということは、「情報を自分でコントロールするための、外界とのコミュニケーションの断絶」を意味する。

コミュニケーションが断絶し、沈黙を強いられると、とんでもなく不快だ。

ふと調べていたら、そんな場面を考察した論文を見つけた。

『会話場面における発言の抑制が精神的健康に及ぼす影響』(畑中、2003)

この論文によれば、発言抑制の頻度が多いほど精神的健康度が低下したり、会話不満感が高まるそうだ(逆に、女性の場合のみ、規範や状況を考慮した発言抑制は、精神的健康度を高め、会話不満感が低くなるそうだが)。

ここで言う「発言抑制」 とは、

自発的か他律的かにかかわらず, 

会話中に自分の意見や気持ちなどについて表出しない行動を指し,

行動の不適切性や適切性などは含意しないものとする. 」

そうだ。

要は「自己表現(話)をしたいけど、ダンマリを決め込まさせる状況は、不健康でツライよ」ということだ。

つまらなさで逡巡するか、他者に操られて自己決定できないか、のどちらかであるである。

こういう場面は、単に人と人との問題ではない。知識が相手だったり、あるいは学校で周りにいる人の価値観だったり、働いている人なら職場の環境だったりする。その都度の文脈や場面で、手を変え品を変え起こりうる。

健康を維持するためにも、学ぶためにも、面白く生きるためにも、「とっかかり」を見つけて、世界をつくることが大切だということだ。




法律の学び方のとっかかり」について以前書いたのは、一方的で面白くない講義がまかり通り、それどころか情報商材まがいの予備校ビジネスが横行しているためである。

本来は法律は人文のカタマリであり、 非常に面白く役に立つにもかかわらず、このザマだ。とはいっても、ケーススタディとして法律はとっつきやすいので、もっと掘り下げていこうと思う。あと複式簿記も。

今回は読書猿『アイデア大全』を具体的には引用しなかった。

それは「とっかかり」の面でややハードルが高い本かもしれないと感じたことと、引用文献があるということの効力をセットで扱いたかったためである。いずれも同書の強烈で信頼できる特徴だ。


外の世界とのハードルの高さ低さは、自分でバランスよく(時には想像もつかないアンバランスさを面白がりながら!)設定できていい。

面白がって書ける内容や取れる行動を見出すためにハードルを調整できれば、その人の売りになる。自尊心を煽って、一国にヘンテコな壁を作って怒りを買う大統領より、はるかにカッコいい。