「議論」の本音

daily0 本音たち。

議論することは「矛盾が生じた人のあいだで、一定の合意を出し、民主的に世の中を回していくための手続き」として欠かせない。

ただし、新しいものごとや世紀の大発見が一世を風靡するとき、議論は無駄である。圧倒的に少数派の強者による「独善」が、議論して合意を生むより先に流行するからだ。文芸作品や映画や漫画のヒット作も、学問上の新たな発見も、圧倒的に少数派の一人から数人が作ってしまう。

新しいものごとが世の中を駆け巡る瞬間には「民主的」という要素は限りなくゼロに近い。多数の人が後追いで議論をするにしても、原典である少数派の「独善」を超えることは極めて難しい。

ここで、何も「日常生活や人間関係で、何もかも省みずに自分勝手にしろ」と言いたいわけではない。多数派どうしで議論をするより、議論を乗り越えて、自分独自の発想を色濃く気楽に出していけることが大事だよ、ということである。

ただし、色濃い「独善」を誰かに理解してもらおうとしたら、結局は「人対人の議論」を頭の片隅に置いておかないと、誰にも理解されないこともお忘れなく。

概念や成果物として出て来るものごとが、いかに目新しく素晴らしかろうと、人に知られないのでは宝の持ち腐れだ。

「議論したいことを伝え切るためのネタとなる知識や技術」や「議論からさらに議論を呼び起こすための議論」を意識しておくといいだろう。傾聴することでもいいし、口下手なら絵でも文芸でも音楽でも、プログラミングやものつくりでもいい。敢えて最初から理解を狙わず、考えを共有できそうな少数派を狙い、孤独に過ごしたっていい。少し目立とうとするための勇気だっていい。

天邪鬼で独善的な人ほど、懐が深くて広い、ひとりでもできる議論の世界にどっぷりつかるといいんだろうね。

遠藤武(えんどう・たける)
グロースハッカー。

↑詳しい自己紹介は上記リンクを参照。

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