「フェイク」の本音

daily0 本音たち。
経験があることは「フェイク(うそぶくこと)」の始まりである。

経験があるばっかりに見えないものが生じ、「これくらい本の通りにすれば何も問題ない」という事実を完全に取りこぼしているからだ。

文献に基づき、物事について適切なストーリーを作れて実行できてしまうなら、経験の有無や経験年数で物事を考えることは全くの無意味なのだ。この例外は、責任の重い医療や法律分野だとか、属人的なスキルである言語能力くらいだろう。

会計だとか人事だとかマネジメントだとか「大なり小なりオフィスで見かける程度のもの」は、新書程度の文献(や専門書や論文)を10冊も読める知的体力があれば、あっさり再現して標準的な価値を提供できてしまう。

文献でナレッジを貯めつつ、「とっかかりの1の経験」にネームタグを付けよう。

そして「私は10できます!(知らないところはどの文献のどこを読めばいいかわかる!)」
言い切ってしまえばいい。これは本来の意味のフェイクだが、ナレッジに裏打ちされているため、厳密にはフェイクではない。

文献ベースのほうが、目先の経験ベースより網羅的なので、実は精度とパフォーマンスが滅茶苦茶高くなるのもこの方法なのである。

これと逆に、目先の経験に頼って文献をいっさい見ない人は、文献を見る人の100倍程度は時間をロスしていると思っていい。

 
要は、知識なき場における時間のロスは、「その無駄な時間のぶんだけ無駄骨を折らせている」ということだ。この記事を読んでいる聡明な方々は、知識を組み合わせて行動して、ナレッジドリブンでさっさとカタをつけてしまえばいい。

20-30年近くの目先の経験を、数日の読書でぶち破るのは、この上ない快感だ。

そんなナレッジでのいたずらを面白がってくれる人と過ごす人生は、快感の極みなんだよね。

遠藤武(えんどう・たける)
グロースハッカー。

↑詳しい自己紹介は上記リンクを参照。

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