「群れ」の本音 その2

daily0 本音たち。

群れることは、自分の自由を多数にプールすることにほかならない。

社会全体では少数派である層であっても、群れ出すと、発言や行動が多数派のようにテンプレート化してくる。

群れて多数派になれば、ひとまず安心感が得られ、自分が悪目立ちする必要がなくなる。これはこれで正しい。

いっぽう、自由を多数にプールしてしまうと、本来自由なはずの層でさえ自由でなくなってしまう。

本来は思考と行動の自由があり、エッジの効いた自論を展開するはずの高学歴層が多数派に流れるのは、バッドエンドだ。

例えば、現今の常識を提供する受験産業に流されると、大学入学後に知的自由が育まれず、おのずと道を見失う。

大学のランクを上から数えたほうが早い場合、学問の基礎が受験産業に毒され、自由を失うリスクに晒されてしまう。

(ランクが低い場合は、そもそも自由の入り口に立つ基礎すらままならない。)

群れる政治家、群れる自称クリエイター、群れる自称事業家、いずれも結果的にサラリーマンと変わらないレベルのコミュニティに落ち着いていく。

ポジショントークとしてサラリーマンを批判していようと、自分がサラリーマン化していることに気づけないのも特徴だ。

いずれも、同調圧力や集団心理に懐疑心を持たず、結果として群れて自由を失う。バッドエンドの最たる例だ。

自分の自由をプールし、同じ階級にいる安心感が付与されることは、屈辱的なほどの不自由の始まりなんだよね。

boxcox.net、遠藤武。

遠藤武(えんどう・たける)
グロースハッカー。

↑詳しい自己紹介は上記リンクを参照。

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