「踏み台」の扱い方

daily0 本音たち。

自分に起こったことの全ては「踏み台」である。

いじめだろうと、健康問題だろうと、離職だろうと、燃え尽き症候群だろうとも、果ては投獄だろうと、いずれも踏み台である。

世間一般に誇れる学歴や職歴は、この上なく立派な「踏み台の中のエリート」だ。

踏み台は「これだけは絶対に譲れない」という価値判断の軸となる。どんなに不遇なことであろうと、全ては文字通りステップアップに繋がっている。悔しさで尽きることなく泣きはらしたとしても、頑丈な(時に怨念混じりの)揺るぎない踏み台としての経験には、代え難い価値がある。

たとえ価値判断の軸が頑固であろうとも、時間の経過と共に、隘路に入り込んだ自分は少しずつ変わる。それにも増して、周囲の環境も変わる。この細かい変化をわずかにでも認識を出来たなら、価値判断の軸を再定義するチャンスが到来したことになる。

経験や学びから、価値やインサイトを生み出しつづけることは、価値判断の軸を再定義することだと言い切って差し支えない。大チャンスの始まりだ。

自分の半径数メートル以内での経験を話そう。かつてトランペットを習っていたときの話だ。

自分が大学生当時の師匠は、一流のトランペット奏者として名を馳せ、指揮者として頭角を表し始めていたが、既にまともな音が出せなかった。

局所性ジストニアと思しき症状で、突然音を失ったためだ。

とあるプロオケの首席奏者をつとめ、音楽一本でやってきた師匠は、音を失った直後「唇を切ってから死のうと思った」と語っていた。

後に指揮者として復活を遂げるまでは、苦闘の連続だったことは想像に難くない。

音楽の基礎があったからこそ、すべてを踏み台にし、新たな世界を切り拓けたと言える。

「いや違う。それはその師匠に才能や機会があっただけだ」と単に答える人もいるだろう。全くそのとおりだ。既に持っている軸やつながりを応用して、勝ちを見込んで、価値を作れる他分野に新規参入するだけでいい。師匠にとって、この時点で価値を出せる分野が指揮者だったというだけだ。シンプルかつ当たり前の話だと言える。

オーケストラ周りを客観的に見てしまおう。一兵卒でしかないトランペット奏者より、マエストロ(指揮者)としてのキャリアを積み上げることのほうがよっぽど価値がある。一般に、楽器奏者から指揮者に転向することは全く簡単ではないことも付け加えておく。

価値を出しながらハマり込めれば、怨念だろうと面白みだろうと、単なる好奇心だろうと、理由や分野など何でもいい。むしろ、自作の立派な踏み台から飛んだ先にこそ、人生の時間を注ぎ込む意味があるものが見つかるのだ。踏み台からジャンプした先で、異次元空間としか呼べない絶好の状況に飛び込めるチャンスは、いくらでもある。

まずは、立派でオリジナルな踏み台を作り上げた自分自身に感謝しよう。踏み台は逃げもしないし壊れもしない。

しかも、状況によっては貸し出すことで、そのまま換価できる。組み合わせて、新型の踏み台を作ることだって可能だ。

あとは、何度も試行錯誤し、シンプルかつ当たり前の組み合わせを通じて、飛び上がってみればいいだけだ。

実のところインサイトとは、踏み台作りから始めて飛躍する、知的スポーツなんだよね。

(謝辞)
送って頂いたご経歴から、とんでもなく立派な踏み台をお持ちだと確信しました。
私のインサイトに感動を抱けるのであれば、新たな世界は遠くないと信じます。
ありがとう。
遠藤武(えんどう・たける)
グロースハッカー。

↑詳しい自己紹介は上記リンクを参照。

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