書こうと思って書けなかったことがある。
言おうと思って言えなかったことがある。
動こうと思って動けなかったことがある。

これを全て実行に移すための基礎づくりが「学ぶ理由」だ。
もっと直接的に「自分が自発的に肯定的になれる世界を作るために学ぶ」と言ってもいい。



多くの人が考えるであろう、単に「誰かが正答を定めた問いに答える」ための学びは、試験対策に過ぎない。



わざと話題をそらして、試験対策の話もしておこう。

試験対策を否定するつもりは全くない。
こと日本において、試験対策で生じるヒエラルキーを否定して逃げてしまうとどうなるか。
うらみつらみのような、陰鬱なコンプレックスを一生に渡ってもたらしかねない。
これだけは何が何でも回避しておきたい。

ただし、日本語圏において、本来なら独創性が求められるような分野が没落するとき、
決まって「既出の設問やパターンの組み合わせ」から誘導できるような方向性が出る。
これは、猫も杓子も試験対策という層がなだれ込むためだ。

具体的には、コンサルティング業界かもしれないし、プログラミングかもしれない。
あるいはRPG(ロールプレイングゲーム)の速解きかもしれないし、クイズゲームかもしれない。
ある程度後天的に解くことができる大衆品は、試験対策のような道が自ずと生じるということだ。

この結果、何が起こるか。
99%を占める層が「アタマがいい」という言葉を、時代に応じて「地頭」などのように言い換える。
そして良くも悪くも「大衆品の速解き向けテンプレートやパターンに無批判に納得してしまう」のだ。

このとき試験対策やその亜種は、天下り的で自由のない納得にとどまり、
「独創性があるように見えて、実はテンプレート的」
「独創的な価値や問題を自分から設定する機会がガクッと減る」
という逆説から逃げられないことを、念頭に置いておきたい。




話をもとに戻そう。
「学ぶ理由」とは、単にヒエラルキーのパーツやプレイヤーになることではない。
「学ぶ理由」とは、単にヒエラルキーを単に否定することではない。

「学ぶ理由」とは、自分でヒエラルキーを組み立てられる(あっさり上書きできる)側に回ることだ。
「学ぶ理由」とは、自分がヒエラルキーの外に出てもいい自由を得ることだ。


常識に屈服せず、障壁にやられず、自分から世界を作っていくことが全てなのだ。
「自分が自発的に肯定的になれる世界を作る」ことを、四六時中アタマに入れておきたい。

肯定感を欠いた時、「カリキュラム消化など、既存のコピペ知識の回収で、ただただつらいハードル」という感覚が始まる。

このように学ぶことに疑問が生じたら「ヒエラルキーの外に出るためにも誰より何より知識を得る」と考えてしまおう。

そうすれば、思いのほか遠くまで飛んでいくことが出来るんだよね。