想像力とは、ありえないインスピレーションを生み出すことだ。

そのためには「常識」と「非常識」のどちらの価値観にも通じている必要がある。

「低俗なものか、高尚なものか、下品なものか、上品なものか?」
まずは全ての物事を常識的に判別するスキルが、想像力の下地として求められる。

判別がついた上で、既存の物事を自らぶち壊したものを説明できる(あるいは可視化・ストーリー化できる)ことで、ようやく人に伝わる想像力が姿を表す。

新しい表現に挑戦する芸術でさえ、その時代の常識を下地にしている。常識があるから非常識があり、この流れこそ想像力の源泉なのである。


分野を横断して、ある種のデタラメな状況からヒントを得ることは、あくまでただの入り口に過ぎない。

デタラメさを、説明がつくように(あるいは感想を抱けるように)描写できなければ、それは「ほれ想像してみろ」という押し付けや置いてけぼりにしかならない。

その時、想像力の姿はどこにもない。

(芸術作品が「わかりづらい」という場面は、理解する上で文脈が必要な場合が多々あるためであることも関わってくる。)


想像力の入り口とはそうではなく、
「これは下品だけど、これが高尚とされる世界につながったらどうなる?」
とか、
「これは上品に見せかけておきながら、権威や実利を抜きにしたら実は低俗だよね?」
という視点の描出が大切になってくる。
「皮膚感覚では並存しえない物どうしをつなげる思考実験の妙技」と言っていい。



ここで、この思考実験の失敗ケースを想像してみよう。
想像力を誤用すれば、「下衆の勘ぐり」に過ぎない薄汚い妄言や失言や、
疑心暗鬼に起因する価値観の押し付けだとか、果てはハラスメントや暴力行為だとか、
頑固や偏屈やセンスの悪さで人を不快にさせるような、見苦しい失態につながりかねない。

これらは、ここで述べている想像力ではない。

自由を奪う無法地帯をもたらすことではなく、
あるいはありえない組み合わせの直言で名もなき人を傷つけることではなく、
あくまで他者の想像力を喚起する「自由を維持するための実験」だということだ。

「常識としての自由と無法の区別」は、想像力の責任の必須条件である。

常識知らずの「自称変わり者」や「自称実験者」や、不快な放言ばかり繰り返すオッサンやオバサンは、実態はただのヘナチョコが服を着て歩いているだけだ。



常識と非常識との対比が適切にできて、初めて「想像力のリテラシー」があると言えるんだよね。