違和感を抱いたら、新旧のインプットから行動とアウトプットにつなげるチャンスだ。

自分の解釈や知識の組み合わせを、さっさと一次資料として表現してしまえばいい。

コメントであれ、論文であれ、文芸や詩歌であれ、マーケットレポートであれ、絵画であれ、音楽作品であれ、サービスであれ、愛の言葉であれ、苦々しさであれ、それらをリリースすることに注力するだけだ。


そもそも、何らかの違和感をついつい心に抱くこととは、アウトプットすべきエネルギーを獲得したことに他ならない。

これを放置すると、溜め込んで爆発してしまう。この現象は一見すると困り物だが、本来は生き生きとしていることの証なのだ。


これと逆に、違和感から行動やアウトプットをついつい強いられ、疲労の極致で空っぽになることもある。

この場合は「強いられずに休み休みやろうよ」というメッセージだと受け取るくらいでちょうどいい。


物事にはあまねくサイクルがある。「ただただひたすら動く」のではなく、「動いたら休む」「休んだら動く」という、極端に当たり前のことに従ってみるのも一興である。



これと逆に「常識」とは「後付けのテクニカルな当たり前」であり、時代によって上書きされる。

常識や通例に違和感を抱いたら、自分で更に後付けや解釈を加えてみよう。

実のところ、日常のあちこちの違和感をわかりやすく表現することは、物事を良くする過程そのものだ。



「世界は表現されていないものだらけだ!」と気づけたら、違和感が面白くなるんだよね。