「記憶」の扱い方

何かを習得する上では、豊かなイメージやプラスのフラッシュバックといった記憶が、自分を助けてくれる。

一方、そのような豊かさを邪魔する、嫌な記憶についてはどうするか。
忘れる権利を行使するか、一切無視する自由を行使して、さっさと次に進んでしえばいい。

どうしても邪魔されて次に進みづらいなら、いかに理不尽でも、誤魔化さずふてくされず、分析対象やコンテンツや向き合うチャンスにしてしまってもいい。

過去の痛みから学び、さっさと忘れて新しい世界を見出せれば、いずれ応援される側に回る。
向き合って痛みを知り、ほんの少しでも優しくなれれば、同じくいずれ応援される側に回る。
痛みを分析対象やコンテンツにしてしまえば、みんなでシェアして美味しく明るく召し上がれる。

痛みを学び知ることとは、自分の思い込みや先入観を方向転換し、感覚を鋭く研ぎ澄ますことである。この成果が他者の悩みを切り落とす助けになり、いつの間にか応援される側に回ってしまうのだ。その過程が何だろうと、記憶の活用を通じて、数ミリでも自分や他者に変化を起こせたなら「大したものだ」と誇れるブレイクスルーだ。

良い記憶も嫌な記憶も、文字通り自分を鍛冶・陶冶することに直接つながるんだよね。