「競争」の扱い方

daily0 本音たち。

そもそも、競争するという発想を前提にすること自体が既に古臭いし、ウソや建前がまかり通る。

競争には基準だとか順位付けを伴う。
基準や順位付けについて、その意味を問う自由と基礎知識を持たずに従う限り、
その中身も分からず、不合理な仕組みを無言のうちに肯定することになる。
消極的な肯定でブラックボックスを放置してしまうと、
現状肯定のための現状肯定が無言でなされ、
「これ、本当は不要だよね?」
「いや、やっぱり必要だよね」
というちょっとした発想すら持てなくなるのだ。
このとき、ブラックボックスのフタが壊れて中身が分かる条件は、経年劣化が発生したときだ。
「実は産業廃棄物の山でした」という形で、中身が突然に飛び出てくるのである。
ガラス張りのロジックで見通せず、かつ基準を懐疑する自由を行使できない(と思い込まされている)物事は、産廃で満たされたブラックボックスを疑うと良い。
大学受験(とそれ以降)を考えよう。
「ガラス張りのロジック」であるはずのアカデミックスキルを自由に扱う基礎として、
大学受験段階という入口で「一定以上の順位超え」を果たしている人が少なくない。
これは順位というスナップショットが問題なのではない。
入口以降の過程で、ヒエラルキーが残るようなカリキュラムを許容しているために、
入口と出口が一致している(ように見えている)のである。
他者との競争を抜きにし、自分との競争に集中することで、
突出を含めた一定水準を確保する仕組みを作れば済む話である。
競争の存在する物事について、
「非合理の放置(基礎知識の放置)はないかな?」
という懐疑心を、いま一度持ってみるといい。
 自分との競争に集中できるよね。
遠藤武(えんどう・たける)
グロースハッカー。

↑詳しい自己紹介は上記リンクを参照。

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