筆記試験の捉え方。
日本語圏(という科挙の文化圏)では、
入試や司法試験や公務員試験は、
これでもかというくらい神格化されている。
特に大学の学部入試は、この傾向が顕著だ。
予備校は、ここにぶらさがったビジネスだからこそ、
より神格化を強化しているわけだ。
現代の筆記試験は、テスト理論や項目応答理論で、
統計的性質から説明をつけようとする。
とはいっても、神格化された要素について、
一定の理論で読み解くまでには至っていない。
特に学部入試と予備校の関係について、
統計的性質からの研究は全く手付かずという、
面白い現象が未だに宙ぶらりんで浮いている。
まともに筆記試験の性質を暴こうとするならば、
「そもそも筆記試験って、適切に能力を反映していないかもよ?」
という問いを立てることについて、許可を出すしかない。
これが何を意味するか。
ゼロベースでこのような許可を出してしまうと、
日本語文化圏での「頭の良さ」「知識人」「学問」のブランドが、
そのあり方を含めて一気に崩壊しかねないことになる。
筆記試験の是非については、泥沼化して全然決着がつかず、
少なく見積もっても、向こう50〜100年くらいは、
既存の議論の延長線上の発想が続くんじゃないかと思う。
要は、根源的・歴史的な視点や、先行研究から、
虚心坦懐に物事を眺める勇気も基礎力もないために、
タブーを保持したまま、日本語圏だけでぬるま湯につかり続けているのだ。
これが意味することは何か。
日本語圏で、議論する習慣ががまともに根付かないのは、
特に「頭の良さ」「知識人」「学問・学歴」について、
タブーをいっさい放置したままということである。
このタブーの放置についての個人的見解。
ここまで述べたタブーの放置は、シンプルに言えば学問の作法の欠如だけれど、
現実解として、これを頭ごなしに「無作法だ」と否定するつもりは毛頭ない。
現にその不正解やタブーを抱え続けている現実で、
精神的な生態系が出来上がっている事実を、
虚心坦懐に見るべきだからである。
頭ごなしに否定し、この事実を解きほぐさないでいるならば、
タブーや不正解や誤解や先行研究から、腹落ちを得ることなど不可能だ。
行政学や歴史学あたりから、いくらでもエビデンスを掘り下げられるとしても、
「海外に逃げた」「議論に逃げた」「試験から逃げた」「試験に逃げた」
という、やり場のない不快感や怒りを消せない人たちは残り続ける。
逃げずに解きほぐすべきは、この不快感や怒りのメカニズムであり、
それが心理学なのか精神分析なのか社会学なのかビジネスなのか、
あるいは自然科学や数学の知識の格差が招くものなのか、
そのどれでもないのか……を、先行事例を扱いながら腹落ちを目指すことだ。
試験文化と、アカデミックな議論文化、
現実的には一方に偏る必要も、いずれかを神格化する必要もない。
少しずつ腹落ちしていくだけで、タブーを切り開くことができるんだよね。