「芸術は爆発だ!」という言葉や『太陽の塔』『明日の神話』といった、常軌を逸した作品で知られる岡本太郎。


もはや説明不要なレベルで知られている鬼才ですが、著書を何冊も読み込むと「常軌を逸した知識人」だとわかる。

父・岡本一平の仕事から、1930年に家族で渡仏したのち、パリ大学でマルセル・モースに民族学を学び、哲学者ジョルジュ・バタイユと親交があったりと多彩。

マルセル モース
2009-02



これに限らず、岡本太郎の動きを追っているだけで、哲学や民族学の入り口にたどり着けてしまう。「語らずとも、歩んだ道がキュレーター」ということだ。




岡本太郎は「芸術とは人間である」を繰り返し説いており、「下手くそなら下手くそなりの凄みを見せつけてしまえ!面白がってみろ!自分の観点を出せ!」ということを繰り返している。

ここまでの開き直りは、中途半端な人を対象にした自己啓発には無縁だろう。





巷にあふれる自己啓発は、版を重ねたごく一部の古典や、既存の知識の焼き直しということに過ぎない。しかもその引用の事実を巧みに隠しているものも少なくない。

古典や人文書で自己啓発を照らしてしまうと、そのフォロワーも取り巻きも、自己啓発の商材を売りさばいている人も、「え?この程度?揃いも揃って、こんなに冴えてないの?」という結論に達してしまう。

何も「冴えない状況から脱して成長することを否定する」わけではない。生死の境をさまよう経験や、悔しくて泣きはらしたドン底や、そこから再起する光明をどうにか見つけたい。



でも、そんな状況ってどうやって呼び込めばいいの?
岡本太郎の発想を借りれば「下手くそなら下手くそなりの凄みを見せつけてしまえ!面白がってみろ!自分の観点を出せ!」という行動が芸術であり、再起を呼び込むための工夫にほかならない。

さらに岡本太郎が違うのは「自分は一人ガキ大将だ」と言い切っていることにある。
過度にウェットな仲間意識や、誰かを崇拝するような発想も、誰から批判されるような発想からも、無縁なわけだ。下手くそなら下手くそなりでいい、というすごみと優しさは、ここにある。

自己啓発は、フォロワーが誰かを崇拝する「馴れ合い」を仕組み化しているだけに過ぎず、ねっとりしていて気色悪い。岡本太郎との比較をすると、気色悪さが一層際立ってしまう。

孤独なら、孤独なりに孤独を面白がってしまえばいいということだよね。



既に生き方が知識や好奇心に満ちあふれている岡本太郎に限っては、氏の著書が仮に古典とあれど、焼き直しが極めて困難ということなんだろうね。