「大卒の価値は下がった」の疑い方

daily0 本音たち。

「大卒の価値は下がった」とか「大卒そのものの価値はゼロに等しくなった」という論調をあちこちでよく聞くが、これは嘘だ。

事実、大学名を頭に付けたテレビ番組や書籍は相変わらず出ており、
芸人が日本語圏の有名大学を目指すような企画は数多くある。

(制約はさておき、なぜ海外の有名大学に行こうとしないのかが疑問だが。)

このほか、名前を売ろうとする多くの人は、出身大学名を看板にしている。
著書で「大学卒の学歴なんていらないよね」という意見を売り出す層が、
仮に大卒でないとしたら、まず誰も話を聞かないだろう。

事実と論調がかみ合わず、あべこべに空中分解してしまっている理由は、
「どこでもいいから大卒があればいい…わけないでしょ?」
という昔からの生々しい本音が、そのまま反映されているに過ぎない。

入学時のセレクションにも、入学後のモチベーションや成果にも、
大学間に明確な序列が存在している。

そんな日本の古き良き(古き悪しき)結論で終わってしまう。

いっぽう、この古臭い結論から一気に離れて、
明らかに見落とされている要素を持ち出してみよう。

「アカデミックスキルを学士課程からどうやって付けて、どのように生かしていくか?」
という視点が、日本語圏では明らかに抜けていると気づける。

研究者は得てして、「アカデミックスキルって修士から付けるんでしょ?とにかく文献集めてテーマ出して書きなよ」で終わる。
expositry writingのようなプログラム化の視点ばきまま、カラに篭って出てこないのが実情だ。
「読んで書くことに追われない大学などさっさと辞めてしまえ」
というような言を、論文の書き方の和書で読んだ記憶がある。
経済活動や生産活動に、安売りしない立場で関わるには、
「読んで書いて喋って懐疑して、アイディアを主体的に形にする」ことの換価がカギだ。
アイディアなしに「大卒の価値は下がった」と不用意に言ってしまう傾向とは 、
この「主体的に形にする」ことを欠いている大学に居ただけに過ぎない。
大卒のROI(投資対効果)を粗雑に書くと、
「知的生産職に就ける。そしてそれは得てして実入りがいい」
そんな発想が出てくる。
主体的にアイディアを形にすることが出来ないならば、
知的生産ができないまま、従って大卒のROIが下がり、
「大卒なんぞ価値がないからいらないんじゃね?」という過誤の疑いに陥ってしまうのだ。
「疑える側を育てるに足らない大学は価値がないからいらないいんじゃね?」
という疑い方が、当を得た疑い方なんだよね。
遠藤武(えんどう・たける)
グロースハッカー。

↑詳しい自己紹介は上記リンクを参照。

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