何かにつけて「無理かもしれない」という言葉や後悔から始まったり、
安っぽいものばかりを扱ったりと、消費を強いる話題ばかりの時は、
何かに煽られ、言いたくないことを言わされていないかどうか注意してみよう。
この具体例。
ギャンブル、お酒、たばこ、偏差値や受験結果へのネガティブで疑いのない視点、
少額の補助金、中途半端な投資や資産運用、生半可な税金の知識、
マルチ商法、煽り記事ばかりのメディアなどが挙げられる。
こういった煽り情報のウラには、時間と心の消費を強いる仕組みがある。
これを強いられると、自由がなくなり、素直な懐疑心を歪めることになる。
そもそも、常識を知っていることは良いことである。
常識知らずはただの無法者に過ぎないのであって、
常識を疑う自由などいくらかかっても得られない。
無法者は、表面上どんなに強くどれだけ目立とうとも、
誰かに撃ち殺されることに怯え続ける弱者でしかないためだ。
だからこそ、自分に都合の良い情報を流して喜ぶしかない。
他方、生半可な知識で消費を強いられるのは、
どこにも自由のないただの多数派だ。
メディアの情報に流されて人生を終える層でしかない。
無法者と生半可な常識人、どちらも本質は同じ「大衆」だ。
このどちらも、大したことのない財物の消費を強いられているか、
あるいは時間や精神や知性の消耗を強いられていることで、共通している。
現実解。
常識の中に自由を組み込む、そのための自由があれば、
物事は消費ではなく、投資に置き換わる。
このとき、どんなにレベルの低い物事でも、
「ああ、これはレベルが低い。だからこうやって上位互換できるよね」
という発想が、常識と自由の組み合わせで成立する。
レベルが低い物事を見て、感謝できるようになったら、
即解決していると言い切って差し支えない。
..遠藤武