「弱者をつけあがらせる」という視点がある。
これは、自称強者・自称少数派という本質的な弱者が、
多数派を弱者に仕立て上げ、我田引水でねじ伏せたフリをしているだけだ。
本音では、多数派を心底恐れているに過ぎない。
この「フリ」の例を挙げよう。
組織や企業で言えば、上意下達が成り立つのは、
単に階級や職位のおかげでしかない。
社会全体で言えば、強者と弱者が成り立つのは、
持っている知識と応用力の量と質でしかない。
要は、いくらお金や知名度がたくさんある少数派の側としても、
それに文化資本や、知性や自由や、立ち居振る舞いの良さがなければ、
「いつまで経っても、本質的にはナメられる弱者のまま」ということである。
自分の実力をはるかに超えて稼いでいるような人が、
どこかおどついたような不安な顔をしているのは、
答えがない物事に答えを出すための知性が備わっていないためだ。
経済的な成長は、文化的・精神的な成長に伴わなければ、
確実にナメられることを、言語化できずに肌で気づいているのである。
こういった方々は、率直に言って、個人的には好きで応援したくなる。
「多数派でないからどうしようもない」
という声なき声があるからこそ、その悩みや、知識や経験の偏りが、
突然思わぬところで足元に引っ掛かるのである。
「多数派だからどうしようもない」と話を終わらせるのでは勿体無い。
多数派を堂々と自認して絶望出来ることは、
実は多数派から抜け出すためのきっかけづくりだ。
自分の弱さがわかっている人の強さは、捨てたもんじゃないよ。
そもそも生来の多数派であるような人は、
自分が多数派であることにいちいち絶望などしないし、
自分の置かれた状況に疑問など一切持たないよね。
現実解。
まずは自分の弱さを認めて、そこから策を考えればいい。
これは少数派の人にとって、むしろ盲点であることが多い。
また、多数派であることも、知識の数も、
一定の量と質を超えて向き合い続けていれば、
実は一つの知性を導き出せてしまう。
「数の暴力」とは良く言ったもので、
ビジネスにせよ民主主義にせよ知識にせよ、
結局は、自由自在に増え続ける数の多さに勝てないんだよね。
..遠藤武