「小説なんて読まなくてもいいでしょ。絵や映像やゲームで物語を伝えることなんていくらでもできるんだし。」

確か小学生くらいのときに、ぼんやりとした不安のように、でも強くそう感じ始めた。

このぼやっとした感覚は、正確には、
「(基礎知識もない状態で、お仕着せのように)小説は読ま(せ)なくてもいいでしょ。」
ということだった。



高校の後半過ぎから大学に入ったあたりまでで、そう気づき出す。クラシック音楽に親しみ、ギリシア古典を入り口に人文科学・自然科学・社会科学と深く進んで行くにつれ、この輪郭がはっきりしていったということだ。

輪郭に助けられているのか、実は視野狭窄に陥らされているのかはさておき、小説の書き手たちが何を下地や元ネタにしているかが、否応なしに見えてしまうと感じた。

もう少し振り返れば、これは小説に限った経験ではないどころか、既視感すら同時に得ていた。高校に入るもう少し前、神話や宗教のようなモティーフを抱えたSF戦闘アニメを初めて見たときも「この情景って、元ネタはあの作品だよね?」というところばかりが目につき、全く楽しめた記憶がない。古典的なアニメや漫画を、刷り込みのように触れる環境にあったからだ。



お下劣としか言えない古典にのめり込んだ
経緯は、この経験への自分なりの解決策だか反抗だったのだろう。クラシック音楽でそのモティーフを知り、作品をさかのぼって、自由な角度から眺めることが、そもそも性に合っていたのかもしれない。あるいはこの動作が、権威でお仕着せする人をいとも簡単に上書き消去できて、気分がよかったのかもしれない。

そもそも既に小学生くらいのときには、ゲームを題材にした小説や、そのモティーフとなった神話や、アニメ化や映画化した小説を読むのは好きだった。これのおかげで識字ができていると言っても過言ではない。

そのおかげで、今ならはっきり言える。「ああ、小説をありがたがってい読ませていたように見えた人らは、なんとなく権威をお仕着せしていただけなのか。しかも物語を、知識として遡る自由すら全く与えずに」と。



ショーペンハウアーが示してくれた思索に触れる前に、当時の自分が「あれ?おかしいな?」と思えて、そこから小説でないものをも読みつづけられたことが、救いだったんだよね。