「知の高速道路」への本音

daily0 本音たち。

ネットを「知の高速道路」と呼ぶ時代があった。
この呼び名は、ネットから集められる知識を活用させて、既存の枠を組み直して価値を作れ観点からは、一点の曇りもなく正しい。

いっぽう、ネットだけではカバーできない基礎的なスキルは存在し続けている。 最先端かつ組織的で、一定の属人化が避けられず、データ化されていない(されづらい)分野も無視できない。

このとき、ネットが用意してくれた仕組みが、必ずしも「知の高速道路」たりうるとは限らなくなる。

 

例えば、

・語学力

・アカデミックスキル

・大規模な仕組みの活用(ITシステム、金融市場、実験装置など)

・古典の知識

・文章力や読解力
・教育水準

などは、ネットだけではカバーしきれない。

その環境に飛び込んだものだけが得られる「ファーストハンドの経験」である。

これには、専門や教養といった「実体験に根ざした知の高速道路」が欠かせない。

「ネットで可能な実体験」を考えてみると、
・手元に置ける書庫や図書館
・ビジネス機会
・映像や授業の閲覧
・プログラミングや執筆
・特定の階層の人のつながり
・モノやサービスの購買
といった要素だろう。

これは、実体験を必ずしも網羅しているわけではない。ネット上の世界観は、ついバイアスフリーで網羅的と感じてしまうが、バイアスフリーなどなりようがない(もとより、ネット上でなくともバイアスフリーなどありえないのだが)。

にも関わらず、「これがすべてであり、覇権を握っている」と認識する人が後を絶たない。

このギャップを考慮すると、ネットを「知の高速道路」と見立てたとき、この高速道路は工事中どころか未完成である。

賢明で率直な人は、
「ネットって、既存のメディアやシステムの仕組みを、早回しのPDCAサイクルで上書きしているだけだよね」
と簡単に気づくだろう。

「ネットだけ」で流行っている物事に対して「目新しいけど、なんだかレベルが低くないか?」と感じられるとしたら、その認識は正しい。既存の物事の焼き直しが多いためだ。

「ネットで下克上が出来る」と鼻息を荒くして言えるほどの、知的水準や実践は、ネットの文化には存在していないと気付ける。

今後、何らかのテクノロジーの発達で、学習を加速させることができるのであれば話は別だろうけども。
オンラインで学位が取れる事実には、いくぶん期待できそうだけれども、実際にキャンパスでハードワークをこなすアカデミックプログラムが否定されることにはならない。)

実のところ、アナログで古典的な要素ほど、ネット上で強烈な希少価値が出て来るんだよね。

遠藤武(えんどう・たける)
グロースハッカー。

↑詳しい自己紹介は上記リンクを参照。

boxcox.netを講読する
タイトルとURLをコピーしました