どんなにアウトプットしようと、
どれほど質を上げて数を多く世に出そうと、
全くの匿名から、ふと出せる視点に勝てっこない。
そう思っておける余裕があるほうがいい。
もはや繰り返す必要も無いけれど、
きょうび広告・宣伝は思い切り嫌われる。
「お前向けにカネをかけて広告を作ったから、四の五の言わずに買えよ」
なんて言われたら、嫌になるに決まってるよね。
もっと言うよ。
コソコソと保身・ポジショントークに走る広告・宣伝だらけで嫌われることと、
真正面から素直に挑戦して「常識知らず!」とバッシングを受けることは、
言うまでもないけれど、全く異なる。
この区別は、見聞きする全ての物事において、
自分の視点で真っ先に区別しておこう。
これについて意見を発する際は匿名でも構わないし、
逆に意見を発さず、自分の脳内のみで言語化しておくだけでもOKだ。
言語化して知識を吸い上げられれば、
ポジショントーク程度で方が就くような物事は、
触れている時間すらもったいないと感じるようになる。
ふと出せるシンプルで素直な視点こそ、
何でもかんでも宣伝に走ろうとする今こそ、
実は価値が出る視点なんだよね。
この価値に匿名も実名もないよ。
寛容や自由に対し、寛容であることと、
不寛容や不自由に対し、不寛容であること。
難しいと感じるなら、これくらいから始めればいい。
匿名で語る自由は、当然のように存在する。
実名で次々と繰り返される特定の宣伝を、
匿名でもいいからふと放り出した素直な視点で、
上書きする自由は、当然のように存在する。
この自由を否定する意見は、
不寛容や不自由を煽るポジショントークだ。
繰り返すよ。
不寛容や不自由には、不寛容であっていい。
寛容や自由には、寛容であり続けよう。
自由で有り続けられて、
より納得が行くと思しきことを、知識から引き出していけば、
奇をてらわずとも自ずと抜きん出られる。
入口が匿名だとしても、
その先で自分の実名に自由と知性が跳ね返って来る。
このとき、実は匿名って相当メリットがあるんだよね。