想像力は、孤立の産物として、自由に出せるからこそ面白い。
誰かが似た概念を散文や韻文や数式で提示しているのか、先行研究は具体的に存在しているのか。
仮にあるとすれば、自分の想像との違いはどこか。
孤立しているからこそ、自分でこれらを掻き集め、黙々と探って形にする必要性と面白さがある。全ては自由意志で行うからこそ、ということだ。
この逆に「誰かに強いられた集団的な想像力」は、馴れ合いの産物に過ぎない。宣伝のために馴れ合いに巻き込まれていると感じたら、さっさと去ってしまおう。
宣伝や喧嘩やファッションの目的でアウトプットしている側は、発想や思考が目的ありきでしかなく、受け手を都合のいいデータ扱いして終わりだ。
そんな状況に、自分の自由を燃焼させる必要などない。
閑話休題。
質の高いアウトプットとは、先行研究を蒐集して照らした、個人の想像力(や経験)の一般化である。
先行研究の蒐集において、馴れ合いをへし折るような発想を持ち込むことも一つの手だけど、これはフワッとした馴れ合いに取り込まれないような仕組みやエネルギーが必要で、少々面倒だ。
まずは想像力を使って、形に出来ていなかった物事を形にし、シンプルに喜んでもらう。そんな素直な発想につなげたほうが、実は面倒ごとも包み込めるんだよね。