「ルール」の扱い方

仕事であれ学びであれ、物事はルールを知って作る側が有利なようにできている。
不満があるのに、ルールに阿るだけでは、何も始まらない。
ルールの壁に勝手に戦意喪失していても、何も変わらない。
「ルール作りなんて、大層なことはできないよ」
「それは政治や行政の仕事でしょ?」
そう思う人は少なくないかもしれないが、立法過程や政治過程の現状をテクニカルに話したいのではない。

まず「言論の自由は、より良いルールを作るためにある」という前提に立とう。
懐疑心を持って学び直し、意見を持つことから始めればいい。
(人文科学・自然科学・社会科学やテクノロジーは、すべて材料だ。)

「これっておかしいよね?」と思う物事に対して、気の利いた一次資料を的確に作り出すことや、徹底して明確に意思表示や行動に出ることは、現行のルールの誤りを正すことの始まりである。

懐疑心を持って学び直すこととは、
「おかしいと思って行動したけども、やりすぎかもしれない。」
「この部分はやりすぎだけど、この部分はもっと強烈でいい。」
「この部分はウソが混じってるけど、この部分は誤解していた。」
と、事実や材料に基づいて絶え間なく議論ができることだ。

意見を持つこととは、過去のストーリーにただ当てはめて分析するのではなく、過去のストーリーと現在出せる妄想を組み合わせて、未来に向けた一次資料をを紡いで行くことである。

これらが、ルール作りの本懐だ。
この発想が活用できれば、成長に困ることはない。

これと逆に、上記のようなルール作りに関わらないままでいるということは、過去も現在も未来も、いかに暴利をむさぼるようなケースだったとしても、無言のうちに「嫌だけど、とにかく全て賛成だ!」というウソを言い続け、思考をひん曲げてしまうことにある。

もう少し具体的に話そう。
もし属する現状のルールと自分の思考がマッチしないなら、所属先や人間関係を一部または全部入れ替えて、自分に有利なルールを作れる側に回る必要がある。
親兄弟だろうと家族だろうと隣近所だろうと学校だろうと会社だろうと、いま関わる状況や組織に不満があるなら、不満が解消される方向に、かつ前向きに話せる方向に持ち込めばいい。

自分の社会的成長が、現行の常識によるミスマッチで潰されたとしたら、それは全ての生き物に平等に与えられた自分の寿命の無駄遣いである。

ルール作りに参画できない場面や仕組みは、関わる意味がない。
そう思うくらいでちょうどいいんだよね。