『聞け万国の労働者』という、「無産の民よ、立て!」と、労働者階級を鼓舞する労働歌がある。
この歌の旋律は『歩兵の本領』という軍歌と同じだ。
さらに、いずれの曲も『アムール川の流血や』という、旧制第一高校(現在の東京大学駒場キャンパス)の寮歌が元ネタである。
現在の目線から見れば、
「無産の民を戦争で犠牲にするのか!」
「プロレタリアートは大卒プチブルに屈したのか!」
「大学を戦争の道具に使うな!」
「(……政治も戦争も自分にゃ関係ないね)」
「大事なのはラヴアンドピースなんだよ!」
と、時代と世代を超えて様々な声が聞こえそうなカオスっぷりだ。
ここで強調したいのは、混沌とするほどの根を下ろして、同じ楽曲が使い回されている事実だ。
歌い継がれるにつれ、1つの同じ楽曲を軸に、相反する思想が駆け巡る。
これは何も特定の楽曲に限ったことではなく、読み継がれた詩や古典や、その誤読にも同様あるいは似た傾向が言える。
「元ネタやモティーフがどこからやってきたか?」
「それをどこに向かわせていくか?
「方向付けをどんな言葉で描写しようか?」
「周囲を取り巻く環境に何があるか?」
この単純な問いの積み重ねは、与えられた世界観を自発的に読み解く行動であり、表現だ。
専門職だろうと、ビジネス全般だろうと、等しく使える。
こういった問いと網羅性を、しつこく積み重ねていれば、少なくとも「労働者」であることからさっさと脱することができる。「自発的に読み解く勇気のある人」、つまり「自分を中心に据えて俯瞰できる人」が、実は非常に少ないためだ。
この事実を頭に入れて行動するだけで救われる場面は、実はかなり多い。
労働者をやめたければ、まずは労働者である事実を俯瞰すればいいんだよね。