月別アーカイブ: 2017年9月

「群れ」の本音

寄り集まって自分(たち)を生存させるため、人間も動物も群れを作る。

文化や科学や自然環境といった絶対的な状況や、他の個体や群れと比べた際の相対的な強さはさておき、生存競争で生き延びるために、一定のルールのもとに群れを作ることは悪いことではない。

群れを作って、「独立した(あるいは統制の取れた)仲間どうしの鮮やかな連携プレー」を繰り出せるのであれば、群れを作ることにメリットがある。

このとき、
・独立心で生き延びていける突出したスキル・知性・行動力がある
・自由意思のもと、心と実利にメリットがあるため、敢えて群れている
・明確な役割分担があり、付かず離れずバランスの良い関係を保てている
ことが、鮮やかな連携プレーの条件である。

これと逆に群れがカッコ悪いことは「群れをなして甘いものばかり食べ、歯を磨かず寝てしまう」ことにある。

もともと発言にキレがあったりする人が、「あれ?最近キレがなくて前からブレてきた…」「似た人の発言の引用ばかりしてるなあ…」というように見えてしまうのは、甘ったるい空気感に文字通り甘んじて、牙をボロボロにしているからに過ぎない。

表立ってなんとなく仲良くしているようで、結果的に足を引っ張り合っているということだ

群れではなく、烏合の衆として平準化してしまえば、もはや牙なんて突出しようがないよね。

「読み間違い」への本音

いろいろな本を読んで、アウトプットにつなげることは、単にその本に従ってスキルを身につけるだけではない。

本を読むことは、タイムマシンに乗ることであり、現実歪曲空間に誘われることであり、教訓という名前のワクチンの接種を受けることであり、自分の世界の辺境を広げるためにエネルギーを捧げる営みである。このとき、ひたすら正確に読み取ることに、必ずしも心血を注ぐことはない。

通じていない分野であればあるほど、読み取って知識やイメージを得るために相当なエネルギーを要する。誤読を避けてに読むことにさらにエネルギーを浪費するより、まずはカジュアルに読むほうが、心理的に健全だ。

試験対策のために読まなければならないとか、誤読が許されない立場であっても、まずは心の余裕がなければ始まらない。

せめて「読み間違いを楽しむ」くらいでありたい。

内容の読み間違いに起因する「ひっかかり」と出会うことが、系統的でとっつきにくい分野の知識を仕入れる第一歩である。フィクションであれば、前提になる知識が少ない段階、特に小さい頃に難しい本を読んだときでは、きっと誤読だらけだ。

むしろ、誤読の渦中とその先に、思いもよらなかった発見や発想があると信じておくくらいでちょうどいい。

このような「背伸びの誤読」があって、初めて知性が磨かれるのである。

そもそも、母語や外国語の習得には間違いがつきものだ。知識を獲得したり、新たな世界観に触れるなら、なおさら読み間違いを大事にしてあげたいよね。

「将来予測モデル」への本音

統計的手法や会計的手法を用いた将来予測は、あくまで「現時点から読み取れる合理的なシナリオ」の延長に限られる。

現時点での前提が崩れれば、この将来予測のモデルの寿命はそれまでだ。再び、シナリオとモデルを組み直す必要が出てくる。予測はモデルのスクラップ・アンド・ビルドの繰り返しだ。

これだけだと味気ないので、将来と将来予測を定性的に捉えなおしてみよう。

まず「そうだったらいいのになぁ」という、欲しいシナリオへの願望がある。
(例えば、研究成果を認められたい、もっと稼ぎたい、作品を残したい、結婚して幸せになりたい…など)

他方「でも今ってこんな具合だよね」という、現状に根ざしたシナリオが見えている。
(例えば、能力が冴えない、容姿がしょぼい、いい人がいない、チャンスがない、行動ができない…など)

願望か現状かを問わず、これらのシナリオは、バラバラに存在していたり、部分的にくっついていたり、根っこが共通していたり、思わぬところでつながっていたり、あるいは切り離されていたりする。

この「シナリオの集合」が、お互いに(あるいは独立して)機能し、刻一刻と変化を呈し、大抵の場合は少しずつゆっくりと将来を作り出していく。確率過程みたいなものと考えると良い。

将来予測はどうだろう。

これらのシナリオの必要な要素に着目して、シナリオ間のつながりや違いに着目し、どのように変化しうるか、あるいはどうやったら変化にこぎつけられそうかを解釈し、行動してみることにほかならない。

主体的に動いて(あるいはダラダラとでもいいから動いて)、ステージを作り、物事が自分にとって有利になる確率を少しでも増やすのみである。
少しだけ動いて見た先に、味わい深い予測のシナリオが立ちうる。
将来予測を狙って当てることが必ずしも可能とは限らない。

容姿がしょぼいとゲームセンターに篭っていたら、そのまま意気投合出来る人を見つけ結婚してしまう人もいる。

能力が冴えないと思ってドロップアウトした人が、ウェブで有名になってしまう場合もある。

ただただ残念な点は、こういう場合、
「え?結局は破局してボロボロじゃないか」
「え?この程度の見識しかないのにプロを名乗れるの?」
という感想しか出てこないところにある。

上記のような人は、精神的にも知性的にも余裕がなく、悪い意味で常識を知らず、敬意など一切払いたくないような立ち居振る舞いが目立つ。

せっかく偶然が味方してくれても、文化資本がなさすぎて自滅してしまうのでは、同じ人間として救われない。

将来予測するにせよ、偶然を味方につけるにせよ、準備不足だけは避けられるようにしておきたいよね。

「自分探し」や「自己啓発」への本音

「自分探し」とは、中途半端に自分のことしか見ていない、気晴らしのお散歩だ。

「自己啓発」は、さしずめランニングや筋トレみたいなものだ。

現今の「自分探し」や「自己啓発」の結果は相場が決まっていて、
時間とお金を消費し、何も見つからず、何も知識が広がらなかったけど、なんとなく納得したフリをするだけ
という、見たくない現実から中途半端に逃げ続けたことによる、残念な光景が目の前に広がるだけに過ぎない。

「探す」とか「啓発する」という動作に着目して、フィールドワークやリサーチと比べてしまうと、あまりにもお粗末としか言えない。

ただし、「自分探し」「自己啓発」を全面否定して切り捨てたいわけではない。

ポイントは「中途半端か否か」という部分にある。

建設的な切り口を出すとすれば、
同じだけの時間と金額を、放浪の旅や自己啓発の商材という中途半端なモノに使うのではなく、読書や小・中・高や大学の復習(あるいは先取り)など、全体像を掴める行動に費やせば良い
という、シンプルな発想に至る。

それでも自己啓発が気になるならば、商材にハマる前に、ノーマン・ヴィンセント・ピール『積極的考え方の力』程度でいいので、古典となる自己啓発書に触れておこう。
そして、以下のような問いや行動を喚起すると良い。
・キリスト教にろくに興味がなかった人が、ノーマン・ヴィンセント・ピールから聖書の世界に興味を持てたら、どうなるか?
・その上で、徹底して和書の自己啓発書を乱読し切ったらどうなるか?
・乱読の結果、共通点や違いは見えてくるか?
・書店やアマゾンに通い詰め、飽きてパターンが見えるまで読みふけったら、さて次は何に興味が移るか?

これは「自己啓発書より高次のステップに進むための刺激的な一例」だ。

「自己啓発書」を一切読むなと断言する気はないし、ナポレオン・ヒルやデール・カーネギーの面白さ(や有益な要素)は認めるけれど、岡本太郎の著書の純粋さには、どうあがいても勝てない。

自己啓発書より、心にも行動にもリターンをもたらす本はたくさんあるので、「色々読んだから、じゃあそろそろ自己啓発書でもリサーチがてら分析的に読んでみるか」というレベルになるまでは、ほどほどにしておいたほうがいい。

でないと、口当たりの良さに飲み込まれてしまう。

さっさとお仕着せの自分探しや自己啓発から卒業し、自分と自分の周りの世界をリサーチして知識と行動を組み立てたほうが、よっぽど言葉本来の意味の「自分探し」や「自己啓発」ということになるんだよね。

小説を読むことへの本音

「小説なんて読まなくてもいいでしょ。絵や映像やゲームで物語を伝えることなんていくらでもできるんだし。」

確か小学生くらいのときに、ぼんやりとした不安のように、でも強くそう感じ始めた。
このぼやっとした感覚は、正確には、
「(基礎知識もない状態で、お仕着せのように)小説は読ま(せ)なくてもいいでしょ。」
ということだった。

高校の後半過ぎから大学に入ったあたりまでで、そう気づき出す。クラシック音楽に親しみ、ギリシア古典を入り口に人文科学・自然科学・社会科学と深く進んで行くにつれ、この輪郭がはっきりしていったということだ。

輪郭に助けられているのか、実は視野狭窄に陥らされているのかはさておき、小説の書き手たちが何を下地や元ネタにしているかが、否応なしに見えてしまうと感じた。

もう少し振り返れば、これは小説に限った経験ではないどころか、既視感すら同時に得ていた。高校に入るもう少し前、神話や宗教のようなモティーフを抱えたSF戦闘アニメを初めて見たときも「この情景って、元ネタはあの作品だよね?」というところばかりが目につき、全く楽しめた記憶がない。古典的なアニメや漫画を、刷り込みのように触れる環境にあったからだ。


お下劣としか言えない古典にのめり込んだ
経緯は、この経験への自分なりの解決策だか反抗だったのだろう。クラシック音楽でそのモティーフを知り、作品をさかのぼって、自由な角度から眺めることが、そもそも性に合っていたのかもしれない。あるいはこの動作が、権威でお仕着せする人をいとも簡単に上書き消去できて、気分がよかったのかもしれない。

そもそも既に小学生くらいのときには、ゲームを題材にした小説や、そのモティーフとなった神話や、アニメ化や映画化した小説を読むのは好きだった。これのおかげで識字ができていると言っても過言ではない。

そのおかげで、今ならはっきり言える。「ああ、小説をありがたがってい読ませていたように見えた人らは、なんとなく権威をお仕着せしていただけなのか。しかも物語を、知識として遡る自由すら全く与えずに」と。

ショーペンハウアーが示してくれた思索に触れる前に、当時の自分が「あれ?おかしいな?」と思えて、そこから小説でないものをも読みつづけられたことが、救いだったんだよね。

外国語が使えることへの本音

外国語を具体的に挙げると、例えば「英語「も」使える」という発想でなければ、実のところまったく意味がない。

日常の意思疎通で口先を動かした経験しかなく、専門分野の積み重ねどころか、基礎知識も知的好奇心もない「英語(だけ)が(半端に)使える」という残念な事例は後を絶たない。

残念か否かの判断方法として、

「その人が大学で何を学んだか?現今の知的興味は何か?」
「何らかの調査・研究職がつとまるか?」
「出身した大学や大学院のレベルはどれくらいか?」
「専門分野を明確に持つ場合、その源流や古典に徹底して通じているか?」
といった問いが挙げられる。

特に、複数の分野にまたがって(例えば、西洋古典にも数学・自然科学にも)通じていると、知的好奇心が強烈にある可能性が高い。

逆に、専門が外国語や国際関係論や学際分野だったり、古典に親しむ余裕がなかったり、営業職だけしか経験がなかったりすると、知的好奇心に乏しい「口先だけ」の層が一気に目立ち始める。

自称国際派が”Greek to me“としか言えなくなってしまう分野ばかりの問いだよね。

「断言」の本音

バイアスや矛盾を含む可能性を承知の上で、理屈と感覚を交差した一点に向け、集中し切って確信犯的に出す視点が「断言」だとしよう。

ここには、
・気楽に孤独を楽しむ勇気
・人やものごとを余すところなく網羅し包み込む自由な知性
・無言のうちに湧き出る威圧感
が必須である。

これらが揃っていなければ、断言は「しょぼさ」を演出してしまうだけでしかない。

マウンティングをする人が情けないほど必死だったり、
確信犯的な極論が知識不足に過ぎなかったり、
正しさばかりを一方的に主張する、
そんな発言がただの阿りに見えたとしよう。

この感覚はいずれも、上の3つのうちどれかが欠けているときの現象だ。

「あれ?この人、オピニオンがしょぼくなった?」
上の3点を通じて、そういう断言を導けるかもね。
「何が何でも断言すべき」という断言が、本当に必要かどうかはさておき。

「努力」の本音

いくら努力に頼ろうとも、作法や前提や方向性が間違っていたら全てが無駄な努力である。

仮にゼロから努力をするならば、まず、
・作法や立ち居振る舞いや基礎知識を徹底して身につける
・自由と懐疑心とジョークを言う余裕を保ち続ける
この二点に尽きる。

これらを欠いてしまうとどうなるか?

必死で無駄な努力ばかりしてしまうんだよね。

まず、作法や基礎知識がなければ、ナメられてしまう。

本人にそんなつもりがなくても「ああ、この人は残念な人だ…」と印象付けてハイおしまい、という具合に。

この「そんなつもりがない」という無意識が曲者だ。

圧倒的多数の人は無意識に残念な発言を繰り返し、同じく圧倒的多数の人は、無意識のうちに「ああ、この人は残念な人だな」というストレートな印象で終わる。

こういった悪循環のもとで行動することが、無駄な努力の根源だ。

逆から言えば「準備し、知識を仕入れ、残念な状況をあらかじめ避ける」ことに努力のリソースを割けばいいのだけどね。

どこかでこの準備をしてこなかった人は、理路整然と剽窃したり、ロジカルなフリをしてデータが不完全なことを隠してしまう発言を繰り返したり、コンプレックスで倫理観や知性が欠落していたりする。

中身がないどころか、相手にするための労力が無駄な努力だよね。

「可視化」の本音

可視化とは「絵を描く」という動作である。

だからといって、言葉通りスケッチブックやケント紙やペンタブレットを用意しろと言いたいのではない。

かといって、データのグラフ化に腐心したり、アローダイアグラムを示すことだけでは不完全で、そもそも“so what?”と言われておしまいだ。

可視化のポイントは「青写真を描く」ことや「絵図を描く」という意味を含んでいなければ、そもそも成り立たない動作だという点にある。

現状の叙述に始まり「次に何が起こりうる?とりうるべき対応策は?」といった、遠くまで届く射程をカバーすることが、可視化のメリットということである。これには、論理的な帰結の手助けを得ることが必須である。

同時に「描いた絵」が想像力や腹落ちを引き出すことも欠かせない。ストーリーや論理や、ちょっとした構成の工夫を通じて、イメージを的確に想起させることができれば、仮に媒体がテキストだろうと可視化のひとつということだ(数学の解説書なんかがこれに該当する)。

よくわからない物事や状況に、一定の目星をつけることが、可視化のポイントということだよね。

「反省」の本音

間違いがあったとき、言い過ぎたことがあったとき、問題が生じたとき、その場で直ちに軌道修正できないのでは、反省したことにはならない。

この「瞬間軌道修正」には、こんな効用がある。
・対人関係を円満にできる
・時間が経って、ないがしろにしてしまうことがない
・物事に余裕を持って臨むきっかけをつかめる

すぐ反省して瞬間的に軌道修正することのコツは、
スピードが速すぎて怒りや自責の念を抱く間すらないほど、さっさと折れるか断るかを選るなり、別な選択肢を取るなり、可能であればその場を面白おかしくするなりしてしまうこと
である。

「嫌だなぁ…」という物事は、ひとまず真っ先に断ってみればいい。
「ちょっと言い過ぎたかな」と思ったことは、すぐフォローして二度と同じことをしなければいい。
「つまらないなぁ…」と思ったら、ジョークを飛ばしてもいいし、即座にその場の大多数と別行動を取ってもいい。

あまりにも速く(ときに面白おかしく!)軌道修正するため、
「反省したフリ」や「皮肉を言う/言われる」という粘着質な細工をシャットアウトできるのがプラスだ。

本当にしつこく執着しなくてはいけないことなんて、実のところほとんどない。

自分が自由かつ精神的に豊かに過ごせて、快食快便であれば、何も言うことはないんだよね。