「知識人が出なくなった」の本音

日本において、知識人や知の巨人が出なくなったと指摘され続けている。

80〜90年代で、そんな層の輩出が止まってしまったと言われて久しい。多数派とまでは言わずとも、現に「自称学者(実態はサラリーマン)」があまりにも目立つ。

この実態は、日本の大学の学士課程の教育が、根本的にアカデミックスキルを欠いていることに起因している。

「現行の日本語圏の教育(と教育産業)が薄ぼんやり作った、なんとなく存在する市場」に、圧倒的多数が無批判に乗っかっているだけに過ぎないのが、大学教育の実態である。

この、あいまいで薄ぼんやり存在する非効率な市場では、何が起こっているか。日本語圏の市場で扱われない、あるいは非常に扱いづらい物事は、すべて無視されているのである。

例えば美術、音楽(特にクラシック音楽)、西洋古典、そしてアカデミックスキル(議論、プレゼン、論文作法、網羅的なリサーチ)あたりは、日本語圏で成立したものではない知性だ。

現代の関係者がどこかで扱いづらさを感じているためか、薄ぼんやりとした無視の対象としてしまっている。これが現状だ。

「各分野を先行研究として横断的に知っていて、更に掘り下げていける」といったような、アカデミックスキルを扱える層は、今や日本にほぼ残っておらず、絶滅しかかっている。

ふた昔前までは、プログラム化せずとも「自分と向き合う教養主義」が成立してきたので、問題視されなかった。

現状の大衆化・多様化した大学は、そういった善意の俗人化は、そもそも成り立たなくなってしまっている。この事実の無視や不理解が、日本の大学教育が上手くいっているとは言い難い現状を、そっくり映し出しているのである。

現実的に言い切ってしまえば、「世界中の知識層が持つにも関わらず、日本語圏でそういったスキルを育てる仕組みも意図もない」のである。育てる気がないのであれば、知識人なんて育ちようがない。

ヒエラルキーを突き破るための発想も、ビジネスの構築をするスキルも、アカデミックスキルが当たり前のようにカバーしている。この下位互換として、なんとなく存在する「ビジネススキル市場」が、世の中に漂っている。

このことに気づければ、実は知識人としてもビジネスパーソンとしても、堂々かつ淡々と活躍出来るんだけどもね。