学歴差別がもし無くなろうとも、知的生産で区別されなくなることはない。
大卒、院卒、PhD。
トップ大学、海外の有名大学、中学受験の有無。
自由な校風、受験少年院。
国立、公立、私立。
試験対策、過去問…。
これらの要素でいくら区別をつけても、いずれも「とめどない知的生産=教養」を担保しないことに注意しよう。
要は、いかに学歴があろうと、行動力や思慮深さがなければ、オシマイなのである。
ここで言う礼儀作法とは、日常の立ち居振る舞いだけでなく、先行研究を参照できるアカデミックスキルや、他分野への知的好奇心や、議論を成立させられる柔軟性も含む。
学歴にそぐわない立ち振る舞いがあれば、無教養として思いっきり軽んじられる。
また、学歴がない人に相応する言動であれば、同じく無教養の一言ですべて済まされてしまう。
学歴を、極めてヒンヤリと合理化してしまうと、とても味気のない上記のような発想に埋もれることになる。
一方、このように合理化すればするほど、かえってアンティークでアナログな、知的生産の温かみが浮き彫りになる。
人間が単なる歯車になってしまっては、そもそも情熱がないが、本音ベースで行動できて基礎知識があれば、そこに熱量が必ず残る。
この熱量の肌感覚が教養であり、専門性とはそれらを掛け算した熱意や熱狂だと言っていい。
大衆化して味気ないという状況は、そもそも教養の真逆であり、大掴みすると熱量もなく実力も不足してしまうことになってしまうんだよね。
論理的に考えるという技法は、熱量や熱狂という混じりっけなしの本音をストレートに出すための技法だと、覚えておこう。