月別アーカイブ: 2018年4月

「冗談」の扱い方

現実の物事にはおしなべて「冗談だろ?」と言いたくなるような感覚が混ざり込む。

現実との差異にいちいち正直に悩まされてしまうくらいなら、
物事は全て冗談やジョークから始まっていると思い込むのも悪くない。

日々、報じられる物事や経験する出来事について、
「これはありえない」「しんどい」「ばかばかしい」…という疑問を感じたとすれば、
その冗談には「どこがどのように{ばかばかしい}か」を照らすための裏取りが必要である。

幼少期に想像もつかなかった分野について、
現に達成し実績を上げている分野があるとすれば、それもまた冗談だ。
冗談の世界をさらに押し広げてしまうくらいでちょうどいい。
空想が現実を超えてしまったら、それが一番爽快であり、それが最も目指すべきところである。

日々、何かに追われてつらい思いでふさぎ込んでしまうのならば、
「冗談じゃない!」とキレ出す前に「いや、これは冗談を現実だと思い込まされていただけだよね」と言い聞かせればいい。
現実解を出すには、冗談のような願望が先にあったほうが、明らかに楽だからである。

眼の前で把握できる程度の範囲はさておき、
文脈や空間や時間に一定の飛躍や間隔があると、いかにそれが事実であったとしても、
冗談や不条理やばかばかしさの類にしか聞こえないことが多々ある。

今から500年だか1,000年も前の人が、今の時代の文明や文化を伝聞したとすれば、
ほぼ確実に悪い冗談にしか聞こえないだろう。
(古典や史料を読む際の注意点として、時代背景を考慮する必要があるが、これは上記の逆である。)

時代の間隔や常識だとかを超えて、
まったく一意に定めきれない多様性があちこちに出てきていると言っていい。

既存の常識では掴みきれない要素が、既存の常識を知らず知らずのうちに壊していて、
例えば既存の組織が「気づいたら潰れていた」ということも十分に起こりうる。

組織立った体系性がまだまだ残っている一方、
技術や言論の広がりが個人レベルまで落とし込まれて来ているため、
既存の組織程度ではとうてい追いきれないような情報のアップデートの発想が無数にある。

そのようにスキマを縫ったビジネスや企画やスタートアップがゲリラ的に出てくるのも、
既存の組織が知らず知らずに立ち遅れてリストラに走るのも、既存の当事者からすれば「悪い冗談」でしかない。

変化が激しかろうと、変化がなかろうと、
どこかのラインで突然「残念!それ実は間逆なんだよね!」
と、質の高い新規参入者が入り込んで来る。

最初は冗談に聞こえようと、その冗談が席巻してしまえば、常識が全て変わってしまう。
(補足しておくと、ウェブetcでスキマを縫った個人が、既存の「自由のないブラック企業」のような低質な事実や発想を垂れ流している。これは「最低最悪のダメな冗談」である。
せめて、ロジックでロジックと知識を集めてロジックを重ねるという基礎力(アカデミックスキル)は最低要件だ。発言も学位も実質的にフェイクというのは、笑えない冗談だ。)

「いま見えている現状は冗談だ」
「冗談には、もっと面白い冗談で対抗してみよう」
「出来る範囲でいいから、冗談と現実を対比して、事実を面白くしよう」
と思って行動するくらいで、現実程度に対処するにはちょうどいい。

せっかくなら、事実につながる冗談を起点にして、
人を自由に出来る立場であり続けたほうが面白いよね。

「本音」の問い方

その本音って、本音に見せかけて、実は誰かに言わされ続けているだけの、
自分とあまり向き合っていない、バイアスのかかった代弁じゃあないよね?

自分に対しても他者に対しても、そのように問いたくなることが少なからずあった。

まず断っておくが、
本音を問う上で、自分と向き合えていないことが悪いと言いたいのではない。
なので、ちょっとドキッとしたのなら、まず深呼吸しよう。

気づくべきは、
「本音という言葉で関所をつくって、川の向こう岸では感情がこじれたまま、
内々をウソをウソで(あるいは無知を無知で)塗り固めるのはもったいないよね?」
という点だ。

また「本音とは、スパッと言い切ることだ!」と安直に単純化してしまうと、
本来一番おもしろい部分である「問いかけ」とか「対話」が失せてしまい、
ロジックからロジックを作り上げる過程が断絶してしまう。

そのせいで本来言語化したい本音が隠れてしまうのは、
自分の資産を隠してしまうようでもったいない。
えぐり出してみないことには始まらない。

自分が、自分の本音をえぐり出す上で大切にしている流れは、以下の4つだ。
・本音がブレるので感情に流されない(感情が先行するならまずはストレスを下げて適当にやり過ごす)
・本音に見せかけた「偽本音」の有無を逐一確認する(ロジックや知識をぶつけて、誤解を持ち込まない)
・その上で、シンプルに自分の言葉で吐き出す(分かりづらい部分は、ロジックと知識を用いて予測や推定を行う)
・上記3つのサイクルを繰り返し、えぐり出すアウトプットの量と質を向上する

要は、ストレスを減らし、ロジックと知識に基づいて、予測や推定も用いて本音をえぐり出し、
この「本音サイクル」の品質を向上させていくというだけである。

例えば、本音をえぐり出す上で、
・自分の脳裏に浮かんだイメージをどうやったら活用できるか?
・自分の現状から言えば、標準的な生き方はどんなものか?
・自分としては、どのような生き方が面白いと思うか?
・標準からどれだけ乖離している(近い)のか?
・それは定量的か?定性的か?
・乖離の根拠は何か?面白おかしい要素はないか?
・これをもし他者に伝えたらどうなるか?
・全部伝えるべきか?一部にすべきか?全く伝えないか?
…というように、ブロックを積み重ねるようにロジックを積み重ねて遊んでいる。
やってみたいことがあるときは、このようなサイクルで遊びつくしてから決めている。

真っ先に不安感を低減させるには、
この先でやろうとしている本音のえぐり出しは、形のないブロック遊びなんだよね
と思っておけばいい。

発言したらまずい要素が、実行にも言動に出なければ、誰にも迷惑はかからない。
これと逆に、嫌なことをやらされたり、忙しさに追い込まれてしまえば、
この「遊び尽くす思考」は確実にままならない。

本音を問うてスッキリするとしたら、まずは「遊び尽くす」という発想ありきでいい。
本音のための本音としてえぐり出してもいいし、
感情に流されないようにするために方法として本音を探ってもいい。

どちらも等しく、本音の使い道の本音なんだよね。

「オリジナリティ」の本音と扱い方

オリジナリティとは、「主観的な主張を客観的に理解可能にする知性」だ。

客観的に理解されて初めて、どんなに主観的な極論だろうとも、
オリジナリティとして他者に伝わるのである。

オリジナリティを得るには、
まず主観をつくる物事の定義を明確にするといい。
次に材料となる知識を用意し、それを客観的に伝える言語を操るといい。

仮に学ぶことがつまらなかったり、何らかの分野の知識が身につかないとしたら、
主観的な主張だとか感想だとかコメントを入れ込めばいい。

「似てる!」とか「近い!」とか「ちょっと違うかな」程度でいい。
感想を少しずつ入れ込んで、オリジナリティを薄く塗り重ねればいいのである。

薄くおぼろげに塗り込んだ先に、飛躍したように見せかけて
実は読み取りやすい論理が出来上がるのである。

これと逆に、オリジナリティを得ようとして奇をてらうことがある。

奇をてらえば、知性を得る機会を逸してしまう。
そうなってしまえば、知識は用意できず、言語は操れない。

また、オリジナリティを得ようとして経験に逃げることもある。
経験に逃げると、文字通り経験以外のことが出来なくなる。
そうなってしまえば、それはオリジナリティではなくただのコピー機だ。

奇をてらっているだけの、つまらない自称有名人がウェブで痛々しく語り散らして炎上するのも、
経験だけでしか生きていない、面白みのない半死人の老害上司がマウンティングするのも、
オリジナリティを気楽に創って楽しむ知性がないことを、自分で認めているに過ぎない。

知性がないということは、頭を使っていないので、人間としては致命的な弱さがある。
なので「面白みに欠けているよね」と感じたなら、
「経験だけじゃん」「奇をてらってるだけじゃん」
とでも思っておけば、確実に気楽に過ごせる。

いっぽう、感受性豊かなあなたは、
そのような感想をとっかかりに知識を仕入れ、
オリジナリティを磨けばいい。

知性があり、かつコピー機ではないあなたは、少し間違えつつも、
誤解の過程すら楽しみながら、オリジナリティをえぐり出してしまえばいいんだよね。

「ひっかかり」の扱い方

疑問点や悩みのような「ひっかかり」がある状態は、
「ひっかかりをアウトプットにつなげてしまえ!」というサインだ。

何らかのインプットが先立って存在しなければ、ひっかかりは出てこない。
このとき、ひっかかりにさらなるインプットをぶつけて、
叩き割るか磨き上げてしまえばいいのである。

途方もなく絶望的な状況だろうとも、
ほんの少しでも物事を良くしようという思いがある限り、
自分自身はすり減らないし、壊れてしまうこともないと断言できる。

もし自分自身がすり減り壊れてしまうとしたら、
それは人や組織を問わず他者に自己決定権を支配されているときである。

賽の河原の石積みが苦しくつまらないのは、誰かの支配によって繰り返し積み上げるのみだからだ。
同じ石なら、崩された石たちを「他山の石」として活用し、自分自身の自由に回帰させればいい。

ひとつひとつの知識や経験を石だと捉えれば、
これらを叩き割るも磨き上げるも、そのまま活用するも自由だ。
石器をつくるも、石器から人類の進化・進歩を考察することも、また一興である。

ここまでであれば単なる言葉遊びだが、
実のところ、ひっかかりで少しずつでも謙虚に(時に大胆に)アウトプットしてしまえば、
思いもよらない出会いや出来事やトレーニングにつながることは間違いない。

嫌いな場所や相手に対してアウトプットしろとまでは言わないけれど、
全てにおいて黙って、自分の存在すらなくなってしまうのはもったいない。

ボロボロになりながらだろうと、楽しみながらだろうと、
ほんの少しでも物事を良くするため次の世界を探すことだって
アウトプットのあり方のひとつだ。

自分自身がひっかかりを提供する側に回って、
誰かをひっかけて、九死に一生を与えてしまうこともある。
それだけでもとんでもなくお得だよね。

「部分勝ち」の本音と扱い方

「部分勝ち」は、行動できる人にとって、実はチャンスの入り口である。

偶然でも何でもいい。ふと出会った部分勝ちを、少しずつ押し広げ、大きな勝ちにすることを念頭に置いていけばいいのである。
部分勝ちを感じたら、それを押し広げるにあたり、
・普段の発想やビヘイビアを総とっかえする
・何となくアクションを取ってみる(やめることも含む)
のいずれかを起爆剤にするといい。
組織や常識の中にいるなら、総とっかえして別な道を明示したほうがわかりやすい。
常識を自分で作るなら、思いつくままに(かつロジックを構築しつつ)行動してみたほうが早い。
部分勝ちは、ボロ負けを認めて絶望の淵にいるとき、そこから再起するための発想である。
自分自身に分がある要素が少しでもあれば、そこから材料を論理的に調達し、
思いのままに勝ちにつなげてしまえばいい。
負け犬根性で事実を誤魔化す偏屈に囚われるより、
「ああ負けた。でもここは明らかに部分的に勝ってるから、自分はこっちから攻めていこう」
と認めたほうが、清々しく選択の自由を行使できる。
細やかにこれを繰り返していくだけで、勝ちにつながる補修がいくらでもできるんだよね。

「インサイト」の本音 その2

インサイトとは、論理を重ねて推定し、その精度を高めていくことに価値がある。
目で見える程度の物事や、自分の経験した程度の物事で判断しているうちは、
ファクトもデータも足りず「インサイトを出した」などとはクチが裂けても言えない。

データドリブンが各所で連呼されて久しい。
実のところ、企業にとって最古のデータドリブンの道具は複式簿記である。
これは現代では、P/LやB/SやC/Fの計数管理とモニタリングとモデリングを軸にしたファイナンスだ。

(特に外資の)企業組織のヒエラルキーは、経営陣を除けばファイナンスが最上位であり、
ファイナンスが軸となって意思決定プロセスを踏むのである。

「インサイトを出す」と言うと、統計学や機械学習のイメージが先行しがちだが、
これらは専らマーケティング施策だとか広告の扱いだとかに特化している。

企業全体の動向を左右するファイナンスの面とリンクせず、
企業政治に悩まされて嫌な思いをするという「データ分析者」が多いのは、
組織としての意思決定については蚊帳の外どころか、全くの素人だからである。

「広告屋さんの雇われ技術屋さんだからでしょ?」と言い切ってしまっても良いだろう。
あくまで技術屋さんであり、局所最適化の機会しか与えられていないということだ。

本来であれば、オペレーションズ・リサーチの如く、
技術者をファイナンス機能に組み入れてヒエラルキーを引き上げるのも手だろう。
しかし現段階ではそのようになっておらず、そのせいで意気消沈し、
インサイトを出す役割を死蔵させてしまう人が後を絶たないのである。

ウィトゲンシュタインが言ったように「自分の言語の限界は、自分の世界の限界」という視点もまた、自分自身をえぐり出すインサイトだ。
新たなファクトとデータが出てくるまでは、これくらいで筆を置いておこう。

「単純化」の本音と扱い方

単純化とは、そのままでは複雑で扱うと疲れ果ててしまう問題を解決するために使う対処法だ。

よく「言い切る」とか「即答」とか「s秒(m分)でわかる」といった言葉で好んでラッピングされる。
このような単純化は、
・問題の論点がえぐり出せない
・極論ばかりで実践ができない
・そもそも現実解が出せす役に立たない
という問題を抱えている。
大多数の人にとっては「智慧なき破戒僧」だとか「ソフィスト」にしか映らないだろう。
個人的には、単純化の極論を繰り広げる人を眺めた上で応援することは嫌いではない。


自分にない要素のヒントになるだけでなく、"So what?"とつっこみを入れて、
自分の新たな知識と行動につなげるきっかけが得られるからだ。

このとき「単純化をしている人も複雑なんだなあ」とか「こういう経験・背景だからこその発想なのかな?」といった、つっこみや思い浮かびが始まる。
それもまた楽しみだ。

単純化の実際の用い方とは、その対極にある「人間が関わる物事のどうにも割り切れない複雑さ」を認め、
その上で「解決策をえぐり出すために厳選して言語や作品で単純化してみる」という発想と構成にある。
言語や作品として単純化し、複雑さを整頓するには、整頓の棚として機能している知識が必要だ。
面白いことに、棚を頭に構築するには一定の時間がかかることもあるし、
突然一気に棚ができることもあるし、崩れてしまったと思った棚が、
更に立派な棚を一気に形成してしまうこともある。
具体的には「物質的にグニャリと変幻自在で、内容が過去にも未来にもアップデートされる、図書館や大型書店の書架」というイメージを持てばいい。
最初から単純化ばかりで済ませてしまうと、えぐり出して単純化し、
その上で納得するための棚が作れないことになる。
えぐり出して実践できるくらいの、ナイフのような危なさを持っていなければ、
それは「単純化」どころか「単なる鈍化」ということなんだよね。

「突き抜ける生き方」の本音

突き抜ける生き方とは、独特な経験や発想や感性を背景に生きることである。

統計学の言葉を使えば「外れ値(outlier)」ということだ。

「平均からどれくらい離れているか?」という程度では、突き抜けていることにはならない。

だいいち、簡単に言語や数値で階層を描写できる程度であれば、

突き抜けているとか独特だとはこれっぽっちも言えないのである。

モデル化しようにも前例がなく、大多数の人からすれば理解も解釈もしようがないことが避けられない。
時として「常識というモデルから、外れ値として除去される疎外感」に悩まされる状況も少なくないだろう。

いっぽう、これは大きなチャンスでもある。

ヒエラルキーの上下で解決できないだとか、

モデル化しようにもモデルの前提になる類似データがない状況とは、

「自由に価値判断を創っていいんだよ」というひらめきの入口だよ。

一定の基礎さえどうにかなっていれば、あとは各々が「手持ちの札をどう切るか」というだけだ。

「手持ちの札をどう切るか」という視点は、

言葉通り自分の専門性の采配を合理的かつ大胆に練って実行することかもしれないし、

手持ちの物事や能力を実際の名刺大のカードに見立てて、紙細工や切り絵やアートや情報をつくることかもしれない。

あるいはその両方の自由な組み合わせかもしれない。

これがただの悪いおふざけや冗談に聞こえたとしても、

「自由に価値判断を創っていいんだよ」というひらめきは、

基礎を大事にしながらも、これくらい極端じゃないと始まらないんだよね。

面白いことに、「自由」を大事にする校風の中学校や高校は、

入学偏差値が物凄く高いケースと、

入学偏差値が物凄く低い(まったく気にしない反教育産業の教養主義)のケースに大別される。

どちらも思いっきり突き抜けているよね。

その自由の先には偏差値80台の世界の続きがあるかもしれないし、
その自由の先には偏差値20台の世界の続きがあるかもしれないし、

その二つの自由は、実は最終的に同じような突き抜け方をするかもしれない。

いずれも、優等生とも劣等生とも、成功者とも失敗者とも規定するつもりがないくらいに、

世間の発想から思いっきり自由に、インテリジェンスをすごく大切にしながら突き抜けている。

学問でも芸能・音楽・芸術でもビジネスでもいいけれど、

突き抜けている生き方を見せている人の経歴を調べてみると、

出身校や背景に、序列を突き抜けた特徴が出てくるんだよね。

突き抜けることとは、自分自身に対して、

基礎を付けた上でそれを自由に扱う発想を認めてやることだ。

cutting edgeって、その矛盾があってこそ初めて創り出せるんだよね。

「基礎知識」の本音と扱い方

基礎知識が無いと思ったら、さっさと仕入れる。
仮に忘れたと感じたのなら、さっさと同じものを仕入れる。
それでも不足を認めるなら、さっさと同じものをしつこく仕入れる。

しつこいフローを抜きにして語ってしまうとカッコ悪い。
遊び道具を抜きにして遊びを語るも同然だ。

もちろんいきなり出来てしまえば、それはそれとて面白い。
「出来てしまう」を定義するなら、自由なイメージできること。

自由にイメージできるとは、遊びのルールに通じること。
あそびをせむとやうまれけむ」も『ホモ・ルーデンス』も同じこと。

仮に生産性を伴う物事だったとしても、
基礎段階は、非生産的な部分を許容するくらいでいい。

しつこく仕入れて、少しずつ違いを見出して基礎を操るためには、
本気で遊び倒して失敗できる非生産性がなければ何も始まらないよね。

「自己決定権」の本音と扱い方

本当に自分から自己決定権を行使したければ、

まず身近をしつこく懐疑してみるといい。
試しに、近所のスーパーマーケットの食材の品揃えを見てみよう。
それらが、商品やメーカーやスペックごとに、どれだけ均質化しているかを探ってみるといい。
かつ、均質化していない商品とは何かを問うてみるといい。
自分の場合、幼少期から「大地を守る会」や「らでぃっしゅぼーや」や「生協」の宅配のお世話になっていた。
当時にしては珍しく、親が徹底的に調べ抜いて、安全とおぼしき無農薬の米や野菜を選んで買っていたのである。
東京23区住まいだったが、合鴨農法の田んぼを見学するツアーに参加したりと、今思い返せば食育を先取りしていたことになる。
無農薬の是非はさておき、今はそのような多様な商品が手に入りやすくなった。
もはや忘れ去られているほどだが、無農薬の野菜や米は、当時のサプライチェーンから言えば「常識の範囲外」だ。
自己決定権の行使が「常識を疑い、徹底的に調べ抜いて、自由を享受する」ことの好例だと確信している。
常識を的確に疑い、自発的に意思決定するためは、しつこく懐疑して調べ抜くことに尽きる。 
本を読んで学び、その上で懐疑することが何事にも代え難いのは、自由に自己決定しているからに他ならない。
影響されるのではなく、懐疑と納得を繰り返して自己決定していくことが、インサイトの原動力になるんだよね。