オリジナリティとは、「主観を、共感に持ち込む知性」だ。
共感されて初めて、どんなに主観的な極論だろうとも、
オリジナリティとして他者に伝わるのである。
オリジナリティを得るには、
まず主観をつくる物事の定義を明確にするといい。
次に材料となる知識を用意し、それを客観的に伝える言語を操るといい。
仮に既存の知識がつまらなかったり、
何らかの分野の知識が身につかないとしたら、
それは自分の主張だとか感想だとかコメントを入れ込んで、
その上でオリジナリティを作るチャンスだと言っていい。
「似てる!」とか「近い!」とか「ちょっと違うかな」程度でいい。
自分の主観を入れ込んで「これは面白い!」にほんのちょっとだけ近づけばいい。
コメントを薄く塗り重ねれば、自分のオリジナリティを出せるである。
「本を読んだら自分を読め」などとよく言われるが、
これは自分の経験を本で得たことと掛け算して、
オリジナリティに昇華させるということだ。
薄くおぼろげに塗り込んだ先に、
経験と知識との掛け算が出てきて、
飛躍したように見せかけて、
読み取りやすい論理が出来上がるのである。
これと逆に、オリジナリティを得ようとして奇をてらうことがある。
単に極論から入ったり、何が何でも目先の経験だけに頼ったり、
論文や本を1万冊読んだことだけを誇ることが、あてはまる。
奇をてらえば、オリジナリティを得る機会を逸してしまう。
そうなってしまえば、ただのコピー機だったり、
ワンパターンで落ちぶれる路線をひたすら走ることになる。
奇をてらっているだけの、つまらない自称有名人が、
ウェブで痛々しく語り散らして炎上するのも、
奇をてらうことでしか生きていない、
面白みのない半死人の老害上司がマウンティングするのも、
オリジナリティを気楽に創って楽しむ知性も行動力もないことを、自分で認めているに過ぎない。
知性がないということは、はっきり言って頭を使っていない。
「面白みに欠けているよね」と感じたり気づいたなら、
「経験だけじゃん」「本のコピーじゃん」「奇をてらってるだけじゃん」
とでも思っておいて、自分は自分のやるべきことを淡々とこなせばいい。
いっぽう、気付ける感受性豊かなあなたは、
そのような感想をとっかかりに「奇をてらう人に足りていないところ」を仕入れ、
オリジナリティを淡々と磨けばいいのである。
知性があり、かつコピー機ではないあなたは、少し間違えつつも、
誤答の過程すら楽しみながら、オリジナリティをえぐり出してしまえばいいんだよね。
boxcox.net、遠藤武。