「自分探し」とは、中途半端に自分のことしか見ていない、気晴らしのお散歩だ。
「自己啓発」は、さしずめランニングや筋トレみたいなものだ。 

現今の「自分探し」や「自己啓発」の結果は相場が決まっていて、
「時間とお金を消費し、何も見つからず、何も知識が広がらなかったけど、なんとなく納得した気がしなくもない」
という、見たくない現実から中途半端に逃げ続けたことによる、残念な光景が目の前に広がるだけに過ぎない。

「探す」とか「啓発する」という動作に着目して、フィールドワークやリサーチと比べてしまうと、あまりにもお粗末としか言えない。 



ただし、これを全面否定して切り捨てたいわけではない。ポイントは「中途半端か否か」という部分にある。

建設的な切り口を出すとすれば、
「同じだけの時間と金額を、放浪の旅や自己啓発の商材という中途半端なモノに使うのではなく、読書や小・中・高や大学の復習(あるいは先取り)など、全体像を掴める行動に費やせば良い」
という、シンプルな発想に至る。



それでも自己啓発が気になるならば、商材にハマる前に、ノーマン・ヴィンセント・ピール『積極的考え方の力』程度でいいので、古典となる自己啓発書に触れておこう。

そして、以下のような問いや行動を喚起すると良い。
・キリスト教にろくに興味がなかった人が、ノーマン・ヴィンセント・ピールから聖書の世界に興味を持てたら、どうなるか?
・その上で、徹底して和書の自己啓発書を乱読し切ったらどうなるか?
・乱読の結果、共通点や違いは見えてくるか?
・書店やアマゾンに通い詰め、飽きてパターンが見えるまで読みふけったら、さて次は何に興味が移るか?
これは「自己啓発書より高次のステップに進むための刺激的な一例」だ。



きょうび自己啓発をおすすめしないことは、以前に岡本太郎を挙げて書いた通りである。

「自己啓発書」を一切読むなと断言する気はないし、ナポレオン・ヒルやデール・カーネギーの面白さ(や有益な要素)は認める。

ただし、自己啓発書より心にも行動にもリターンのある本はたくさんあるので、「色々読んだから、じゃあそろそろ自己啓発書でもリサーチがてら分析的に読んでみるか」というレベルになるまでは、ほどほどにしておいたほうがいい。

でないと、口当たりの良さに飲み込まれてしまう。



さっさとお仕着せの自分探しや自己啓発から卒業し、自分と自分の周りの世界をリサーチして知識と行動を組み立てたほうが、よっぽど言葉本来の意味の「自分探し」や「自己啓発」ということになるんだよね。