月別アーカイブ: 2018年5月

「混乱」の扱い方

混乱して落ち着かない時って、

脳内からの視線がとんでもないほど目先の物事だけに集中したり、

脳内だけ過去5年くらいの厚みのある嫌な期間にワープしたり、
一体いつを示しているのかわからない未来の不安をはじき出すよね。
この自由すぎる現象とは、
頭の中でシナリオライターだか監督だかが、
元気に暴れてくれているようなものだ。
日々寝て起きて食べて知的好奇心を満たす、
カラダ全体の出資者である自分自身は、
こいつらの引き起こした混乱に物申す権利を持っている。
不快感や気恥ずかしさを抱く必要など一切なく、
堂々と頭の中に知恵を絞って命令を下せばいい。
せっかくだから、もっと自分に都合のいい混乱に、
シナリオも配役も書き換えればいい。


今やっていることは、実は仮の姿で、もうすぐ真の姿が
完成するという混沌を演じるくらいで、ちょうどいいんだよね。

「自分のメディア」の扱い方

大騒ぎする炎上ビジネスが嫌なら、チャンネルを変えて、本で上位互換すればいい。
よっぽどひどい本や嫌いな本じゃなければ、大騒ぎに終わることはない。

ふと、楽器をやっていたときのことを思い出す。
音を飛ばすには「大騒ぎ」ではなく、
「響いて通る美声」のイメージを持つことが大事だったと。

知識や知見や空想を、自分の言葉でしずしずと書いて響かせるほうが、
メンタルと知的好奇心への投資効果がはるかに大きい。

自分のメディアの扱い方って、このとおり、
一つのテンプレートに定まりようがないよね。

「またか…」という感覚の扱い方

事あるごとに「またか…」と退屈を感じてしまうのは、

同じような傾向の出来事に、同じような解釈を加えてしまっているだけだ。
そもそも「全く同一の出来事」なんて、二つと存在しない。
「全く同じキャストが、全く同じ舞台で、全く同じ時間に動く」ことはないのである。

どうせだったら「やった!また面白いことがあった!」と言うために、
・全く同一の出来事など存在しないことを腹落ちする
・似たパターンを排除するために新しいことを日常に混ぜる
・つまらないと思うことはアウトプットしない
というほうが健全だ。
どうせなら、頭の中で文化祭を企画したり、
ウェブで面白そうな人に接してみたり、
自分でも「うっわ、バカみたい!」と思わず笑ってしまうようなことを、
自分からやってみたほうが健全だ。
「またか…」と思い込んだストレスの果てに、
取り返しの付かないバカなことを無意識のうちにやってしまったり、
心のスキマを怪しい集団心理に埋められてしまったりするより、
遥かに健全だよ。
物事を上から眺めてクスッと出来る、
そんな発想や妄想をするだけで、
またとない知恵比べの機会がやってくるんだよね。

自由の扱い方

とある自由な校風の学校では、
こんな歌が歌い継がれている。

以下はその一節の引用だ。

いつも思い出すのさ
自由のために死を選んだ
グェン・バン・チョイ ジョー・ヒル ビクトル・ハラ
決して忘れはしないさ

この歌詞を以って、この『Che Sara(ケ・サラ)』という楽曲を語ることに、
「超訳じゃないか」とか「あまりにイデオロギー的な革命歌や労働歌だ」とか「原詩を壊すな」
といった嫌悪感を抱く人も少なくないだろう。

この歌詞そのものに対する、是非の評価をするつもりはない。

論点にしたいのは、この歌詞を歌う学校から、
エッジの利いた人材が出てきているという事実だけだ。
(断っておくが、私はこの学校の関係者や卒業生や支援者ではない。
相当な長時間を要する卒業行事は、たまたま縁あって見学したけれども。)

教育において自由を確保するには、人材や用地や文化の管理に相応のコストがかかる。
当然ながら、学費も馬鹿にならない。労働歌とは真逆の立場である。
そしてコストをかけたとしても、全員が等しく見合ったROI(投資対効果)が得られるとは限らない。

そのいっぽう、圧倒的多数の人は自由ドリブンの教育など享受できず、
「頭の良し悪し」とか「世間の評価」とか「年収」といった、
明確な統計指標のように見えた、曖昧なモノサシで動かされることになる。
(そもそもを除けば、圧倒的多数の人は、均質化した箱物行政の枠内に押し込められる。)

どれだけの人が享受できるかはさておき、自由のある教育にリターンがあるとすれば、
自由に自己決定出来るだけの知識と知恵を活用するための、勇気の準備くらいだろう。

自由ドリブンの場合、出来る限り強烈な(=その人らしさを十二分に発揮できる、という意味)
リターンが生じることを狙える、そんな環境の享受がこの鍵である。

個人的な記憶を手繰り寄せると、この強烈な歌詞の歌い継がれが、
卒業生に「壊れた楽園」と言わしめるまでに浸透していて、
それが強烈なリターンにつながっている。

これくらいの徹底なしには、自由は扱えないんだよね。

ニュース記事の示唆から「大学教育と教養」を探ってみたお話。

以下のツイートで述べた通り、
「教養」について問題視する記事が注目を集めている。

「地位はあるけど教養がない層」とは、
当然のことながら、今に始まった話でも何でもないし、
また当然ではなかった流れとして、今新たに出てきている話も存在している。

ここで問題提起しよう。

専門知識を束ねる教養を取り扱う大学が、
マネタイズという視点では情報弱者向けの教育機関だよね?イラネ!
という程度で、本当に消えてしまうのだろうか?

冷静に考えてみれば「否」である。

「個人のウェブ広告メディアで楽しく暮らす層の購買市場とは、まず被らない」
という視点が現実的だ。
(言わずもがな、法規制やライセンスが存在する分野の価値も確保されるが、
実際にライセンスを取得した層のROIも揺らいでいる。これはまた別の機会に言及したい。)

そもそもここには、
・学問自体の面白さや経済的有用性を知っている層の発言ではない。
研究がスタートアップ企業を作る事例が多数出てきている。
・オンラインコースが多数提供されている。

(MOOCだけでなくアリゾナ州立大学のような学位取得コースが多数ある。)
という部分に、炎上マーケティングの明確な抜けがある。

「ただ二極化していくのみ」に留まるという流れが現実的だ。

対面で知的生産するコミュニティとしての価値がある場所のみ残るという、
今までとさして変わりない状況が、二極化でいっそう強化されるだけだろう。

特に中堅どころの大学の価値崩れは、現に起こっていることだ。
また、個人の感想に過ぎないが「数学、外国語、知的好奇心」のパフォーマンスが、
入学難易度と比例していると思う人は決して少なくないだろう。
(いっぽうで知的好奇心が高ければ、記号操作である数学は、
どうとでもカバーできるとも信じているのだけれど。これは別の機会に書きたい。)

話を戻そう。
知的生産から離れた状態を、以下のようにまとめた。

・個人の体験や世界観に共感すること(負の共感も含む感想)
・再現可能である(と思しき)ロジックを追いかけること
の区別の欠如である。

何が感想で、何がロジックであるかを明確にしておくことで、
真実性を確保する態度ができるわけだ。
そもそもこれを明確に区別して書くことは、知的生産の入口である。
学士課程入学後すぐの「論文の書き方」で教わる程度の話だ。)

個人の体験や世界観への感想、再現可能なロジックの追跡、
どちらが良いというものではなく、どちらにも価値があるため、
「価値を場合分けする」という表現を用いている。

自然言語を用いるものの、日常の感覚を離れ、
感想とロジックを明確に区別し論じるという訓練は、
大学で得られる一番の知的生産体験だと言えるのである。

教養という言葉を敢えて一切使わずに書いて来ているけれども、
教養の効果は、体験的な知的生産を通じた、
その先の世界の抉り出しにある。

組織か個人かという手段が問題なのではなく、
「知的生産を通じて経済活動にコミットする」という発想を持つほうが、
自分独自のマーケットと世界を獲得することに直接つながる。

大学教育がそのつながりをもたらさないとしたら、
そもそも教育・研究として機能しているとは言い難い「ウソの場」でしかないんだよね。

「嫌われること」の扱い方

実のところ、誰かから嫌われることって、

自由を得られるチャンスなんだよね。

鍛えることのきっかけにもなるし、

穴を埋めることのきっかけにもなるし、

実は気にする必要のない物事の断捨離にもなる。

さっさと嫌われて、どうでもいい物事から
距離をとって外部に出て居場所を作ったほうが楽
ということだ。

いっぽう「自分は大多数と違っている!どうしようもできない!

という具合に、自分が自分から嫌われる自己嫌悪感が出てきたとしよう。

このとき、自己嫌悪感をきっかけに変容するという発想を

持てばいいのであって、同じくどうでもいい物事から外部に出るだけでいい。

自分の例をl正直に白状すると、未就学児だったころから、小学校・中学校・高校くらいまで、

社会生活で居場所があると感じられるような実感は、自分には全くなかった。

そのかわり、本と音楽とゲームで得られる、感覚的な居場所に常に頼ることができた。

今でも感覚や知的好奇心を鈍らせずに来られていると実感しているけれど、

感覚的な居場所の中で、自分を徹底的に守ることで、

却って自分から徹底的に攻めることができているためだ。

何かしらの外的な物事に嫌悪感を抱いた場合や

「これ明らかにおかしいよね」と感じたとき、

論点だけをすくい取り、アップデートの上書き保存を楽しめるようになった。

要は、守りと攻めのおかげで、問題の論点だけに集中することができるのである。

これもひとつの自由のあり方だと確信している。

早々に嫌われてしまうことは、

自分を好きになって活かし続けるチャンスを、

いくらでも得てしまうことなんだよね。

「情報弱者とヒマ」の扱い方

自分でこのように書いておいて、自己批判。

情報弱者ほど、そもそも教育格差で情報アクセスに難がある。

ウェブで情報を調べようとも、どうしようもないまとめサイトだとか、
フェイクでしかない物事ばかりに目がいってしまう。
「有名人の誰々が言ったから」という手口は、テレビでよくやられてきた手法だ。
ウェブだろうとテレビだろうと新聞だろうと大差ない。
まずその一点に気づこう。

検証のできない情報に流されてしまうリテラシーのない層ほど、
決断も判断もできないために、毎日イヤなことをイヤイヤやらされているわけで、
そんな状態がヒマだとはとうてい言い難い。
ここから脱却しよう。

ヒマを得るためには、ヒマにつながる仕組みを得られるような、
知識や発想や行動が必要だ。

そもそも毎日やることが、
スコレー(閑暇)だとかテオリア(観想)につながってしまうくらいでちょうどいい。
これらはそもそも古典的な学問の系譜だけど、自由になることってこういうことだ。

「広告代理店に仕込まれた番組を見ることが、
広告のある個人メディアを見ることに変わっただけに過ぎないよね?」
「それを超える面白いアイディアを仕込むには何が必要かな?」

これが当然なくらいであったほうが、
思考強者でいられるんだよね。

「権利のための闘争」の扱い方

タイトルはイェーリングの著書のままだ。

そもそも、自由を獲得するための行動について、
今のところ日本では「尊いものだ」という発想がないことが問題なんじゃないかなあ。

古臭いブラックな組織の話も、
目下の政治の話も、
MeTooの話も、
自己責任ばかり先行することも、
結局は食い物にされている人がいることが一番の軸だよ。

「これ、実はどれも共通していることなんだよ」という視点が持てていないことや、
自由を得て保持することの尊さが全く話題にされていない。

アンチブラック企業ネタに食らいついても、
ウェブ上で政治的には真逆の立場のネタに食らいついてしまうする。

これってね、
「権利を主張する前に義務を果たせ」
「自由はわがままだから自由なんていらない」
という、古臭い自己批判のような同調圧力で終わってしまうこととまるっきり同じだよ。

解決策。
「権利のための“闘争”」という言葉に昭和臭さや汗臭さを感じてしまうなら、
単に「権利のための“自由の確保”」とでも言い換えてしまっていいよ。

ウェブで誰でも発信出来るようになった今でさえ、
未だに「保守と革新」や「右翼と左翼」から脱しきれず、
“闘争”ですらない“ケンカ”に矮小化されてしまうのは残念極まりない。

せめて最低でも自由の尊重が前提に来ないと、
現代的な議論が始まらないんだよね。

『ハッカーとオタク』

私は、サブカル評論の原因になったオタクという用語が、
小さい頃からどうにも好きになれない。


いちばん大きな理由は、そもそもそんなものは幼少期から眼の前に存在していたからだ。 オタクとは、ほとんど関連のない分野が歴史的な偶然からいっしょくたに袋に放り込まれたもので、言ってみれば(両親が参加していたらしい)コミックマーケットみたいなものだ。

一方の端では、(ほんとうは人文科学の)いわゆる「文系」とやらの系譜にある人々が、収入の不足分を得るためにオタクを銘打って消費活動と評論を行っている。 真ん中あたりでは、二次創作の博物館みたいなことをやっている人々がいる。 推しカプの可能性の振舞いを描いて調べたりとか、なろう小説を書いたりとか、そういうことだ。 そして、反対側の端っこには、(ほんとうは自然科学の)いわゆる「理系」とやらのプログラマ達がいる。 面白いアプリを作ろうとしている者達だ。

彼らにとっては、 オタクとは単なる肩書きにすぎない。評論家にとっての居場所が、またデジタル絵師にとっての共通点がそうであるように。 これはまるで、文学と美術と情報科学をひとつの学科に押し込めているみたいだ。
 
(中略)

子供の頃、いつも、人の身になってものを考えなさいと教えられた。 実際にはそう言われる時はいつでも、自分のしたいことじゃなくて他人の望むことをしなさい、という意味だった。 だから共感なんてつまらないものだと思って、それを磨こうとはしなかった。

そう、なんとも思わない。間違ってなんかいない。 他人の身になってものを見ないというのは、本当は成功する秘密だったんだ。 それは利己主義を意味するのである。他の人のものの見方を理解しないことは、 あなたがその人の利益のために行動しなくてもいいということには関係あるんだ。特定の状況でなくとも、例えば戦争をしている時は、 まったくそのとおりの追従をすべきと述べるだろう。

(中略)

ウォルト・ディズニーや手塚治虫の時代には、アニメは「まんが映画」と呼ばれそれほどクールではなかったが、 彼らの作品のおかげで後生に作家が生まれ、ずっと重要視されるようになった。 オタクがどれだけクールになるかは、まさに我々がこのもはや新しくないメディアで何ができるかにかかっている。

ある意味、クールさが遅れて来ることは利点だ。 今、オタク批評を書いていたりする人に会ったとしたら、 その人が単に二次嫁と権威にモテたくてやってるんじゃないことは確かとは言い難いだろう。

元ネタ … Paul Graham:Hackers and Painters (日本語訳:Shiro Kawai)
http://practical-scheme.net/trans/hp-j.html

ウェブにあるものの本源的価値がどこから来るのかについて探った。

ふと「ウェブにあるものの本源的価値ってどこから来るのさ?」という疑問が沸いた。

オンラインサロンについて「レバレッジがないよね」という視点を見かけたことが原因だ。

もともと、双方向的な「参加できる個人メディア」のような仕組みだと思っていたが、おそらく概ねその通りの様子だ。

(面白い企画を集めて、そのままビジネスに繋げてしまう、

という流れもある様子だけど、ごく限られるんじゃないかなあ。)

この本源的価値は、プログラミングで書かれたメディアを介して、
個人の信用力がファンクラブや雑誌記事のように拡散し支持されるという点にある。

あくまで信用力ベースやコンテンツベースの物事であり、
スタートアップのように既存の概念の再定義を行ったり…というわけではないし、
学問のように学術的価値があることを行ったり…というわけではないし、
資金調達をテコにして規模の経済を得る…という話でもない。

そもそも、レバレッジが利く仕組みがさほどないのである。

とまあ、ここまで書くと、雑誌やファンクラブと大差がないと気づける。
絵に価値が置かれる漫画家やデザイナーや、音に価値が置かれる音楽家はさておき、
サロンにピン留めされたコンテンツに対して課金するだけであって、
大きな再定義を出すには至っていないというのが実情だろう。

サロンのコンテンツは、あくまで個人のバリューありきということだ。

ここで、個人のバリューを差し引いてしまうと、残る価値の要素として、
プログラミング言語で書かれたウェブ上のデータである点に着目できる。

端的に言えば、ウェブ上に置かれた人格のあるソフトウェアのようなものと見立てると、
ウェブに置かれていること自体が、注目を集めて価値を増やし生産するトリガーになるわけだ。
そもそもニッチすぎたり技術的制約があって、書店に並びようがなかったために、
ウェブ上でカルト的に流布する知的財産に化けてしまうということである。

本源的価値など無いと言われている仮想通貨(暗号通貨)についても同じことが言える。

要は、ある種のオープンソースっぽいソフトウェアのような何かに対する投資や投機であって、
そこに市場があるために、価値が上下して一喜一憂する人が存在するということである。

プログラミング言語で書かれたウェブ上のデータという点が、
法定通貨と全く異なるフィジカルでない手続きを踏むために、
どうしても奇妙に映るということである。

「プログラミング言語で書かれた」という部分の一般的なお話について、
多くの人が何となく見過ごしてしまいそうなので明言しておく。

「中央集権的でなく、自分(たち)で物事を管理しハックし生産できるという点」
が一番の価値であって、少し学べば誰でも(たとえ不完全でも)価値増やしに参加できる、
という部分が一番の強みだ。専任の職務としてプログラミングを扱う必要は必ずしもない。

「違うよ。価値があるのはコードじゃなくてアイディアや着眼点でしょ」
という反論の余地を敢えて残すとすれば、アイディアや着眼点をあちこちから少しずつ拝借して、
誰でも参入できるという部分自体に価値があると更に反論できよう。

コードを書いて、業務を自動化したり予測したりすることで得られる利便性だけでなく、
コードで書かれて存在していて活用できることそのものに、
ニッチな知的財産としての価値が生じるということなんだよね。