議論することの意味とは、過去や現在をありのままに捉えて検証し、 将来の価値を前向きに作っていくことにある。

アカデミックな空間で行われる議論やそのトレーニングは、この意味に沿う「価値への問い」が、自己目的的に(時に無目的に)絶え間なく求められる。

だからこそ、議論が議論として成り立つのだ。


いっぽう、ビジネスの空間で行われる議論は、本質的には議論でも何でもない。

限りある資産・資本といった変数を、効果的に運転するための利害調整やポジショントークでしかないためだ。

具体的には、カネと権限と権力の奪い合いでしかない。時には、科学も古典も捻じ曲げられてしまう。


では、アカデミックな価値のある議論が、ビジネスで重視される理由はなぜか?
ビジネスは「アカデミックな領域の部分集合でしかない」ことによる。
要は、ビジネスはアカデミックな物事で全部説明がついてしまうのである。

これを知らず、不用意にビジネスだけで勝ち誇ってしまうと、マウンティングだとか、オッサン・オバサン臭い説教だとか、質の低い「自称・地頭の良さ」に終始してしまう。


こうなりうるリスク要因は、以下の通りだ。
・新卒就職の大企業でなんとなく営業部門に配属された
・大学は大教室の講義と試験対策ばかりで双方向的でなかった
・そもそも自発的に変化をつけて専攻を選ぶ自由もなかった
・複数言語(外国語、プログラミング言語、数学…)を扱うことができない
・日本語の小説は読むが、その発想の最奥である自由や古典に思考に根差していない

こういった要因を複数抱える層は、議論の習慣がない。
いかほど知識があれど、
「日本限定の義務教育+塾・予備校どまりだろうな」
と頭の片隅に入れておくといい。

具体的な物事を表面的にあげつらう、利害調整はできる(大切なことではあるけども)。
処理能力は低くないので、少し勇気があれば炎上商法はできる(傍から見ていて興味深いので、否定はしない)。


その反面、具体と抽象を行き来したり、 帰納と演繹のサイクルを用いたりすることができない

その心は、
「現代の義務教育や教育産業(どちらもビジネスだ!)の範囲外だけど、知り継がれて来ているもの」
については、からきしダメということだ。

早い話が、前提となる材料不足というだけなのである。

「勉強」「頭が良い」という言葉が大好きな割に、ビジネスのカバー外がザルという興味深い事実があるんだよね。