「表現しない」の扱い方

daily0 本音たち。
表現しない、あるいは表現の幅を絞ることも、表現のひとつだ。

何も、わざわざ詭弁を弄しろと言いたいのではない。
言葉で直接記述せず、文脈や場面や、語彙や物事の「不思議な組み合わせ」に語らせてみるといい。
引用した詩に語らせたり、パロディで独自の世界観を作ることを試みてもいい。

何が欠けていて(何が多すぎて)、どのようなイメージを言葉から与えられるかが、このポイントだ。
自分が何かを成し遂げんがために、わざと泣き言を言わず、淡々と動くこともこれにあたる。

いっぽう、表現の正攻法としては、論文の書き方やアカデミックスキルが挙げられる。
言語やデータを通じてアイディアを伝える上での重要な基礎であることに、異論はない。
ただし注意すべき点として、
「専門家の裁量や認識にのみ依拠して、特定分野の特定領域に絞って、その範囲内において合理的と思われる手法で意図や価値を主張する議論を行う」
という、専門家集団の合意に基づいて書かれている点に注意が必要だ。
これはどういうことか。
専門家の合意のもと、特定の論点が無視されれうるリスクがあるということである。
意図の有無を問わず、特定領域がチェリーピッキングされ、そのせいで矛盾やコンフリクトを起こしていても、
専門家が扱う範囲外と決めてしまえば「敢えて表現に載せない」ものとして、バイアスを放置できてしまうのだ。
敢えて表現しないという発想には、積極性も消極性も、誤謬も確信犯も、前進も後退もあるんだよね。

遠藤武(えんどう・たける)
グロースハッカー。

↑詳しい自己紹介は上記リンクを参照。

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