「やりなおし」 には創造力が求められる。
一定の知識があるからこそ、バイアスを抜け出すための工夫が必要だからだ。
think out of the box とは良く言うが、
これは今までのサイクルを超えて、箱の外に出るということだ。
創造力の発揮や、新たな知見や問題解決は、
現状の箱の外に出ることであっさりと得られてしまうことが、相当多いんだよね。
自分の場合、統計学者のG. E. P. Box氏とD. R. Cox氏
(と、アナリティクスの世界を教えてくれた師匠)がいなければ、
技術的にも精神的にも、自分の存在はこの世にないと言っていい。
サイトの名前をboxcox.netにした理由は、
機械学習や統計学で用いられるBox-Cox transformationの恩恵を受けていることと、
“Box and Cox”という「二人一役」のイギリス喜劇のダブルミーニングから来ている。
「適度にゆっくりしながらも、大局観を持つといいよ」という言葉を師匠から頂きながら、
「世界や物事は、モデルを構築して網羅して、シムシティやRPGのように眺めて問題なし」
という見解を得られたことには、この背景がある。
自分は自分の世界の市長であっていいし、他者の手伝いを得てもいいし、
精神的にやられて動けないなら、1ミリでも動けたことがそもそも奇跡だ。
「一般的なサイクルや、目先の推論から得られる発想」の外から眺めて悪循環を断ち切るのも自由だし、
どうしても苦しんでしまうこともまた自分の何気ない選択だと気づけたのも、この背景のおかげだ。
なぜこんなことを書いたかというと、
これらの経験の全てが、やりなおしの産物に過ぎないからである。
正直に言うと、どうしても譲れなかった分野と、全く想定していなかった分野を織り交ぜて、
自分にフィットする分野に、ごく自然に入り込んでしまったような感覚だ。
やりなおした後、妥協したり挫折したという感覚は不思議とない。
かといって、自分が譲れない分野一本に固執した感覚も一切ない。
そのおかげで、自分の分野の世界的な動向(と、その近傍の分野の伝統的・現代的な勘所)が、
自ずとわかってしまうメリットを得ている。今もなお、止まる様子はない。
ここで言う「やりなおし」は、
自分にとっての既存の分野をさっさと捨てることと言ってもいいし、
自分にとっての既存の分野を無理なく死守することだと言ってもいい。
そのどちらも取ることだと実感できれば、話は早い。
これは「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺せ」を上書きする考え方だ。
「仏を殺して再生してもいいし、仏を後生大事にしてもいい」のである。
そうして一度得た知識や感覚を、否定も肯定もして次に活用すればいいのである。
良い経験も悪い経験も、全て再解釈で上書きができると捉えればいい。
つまるところ、自分をかばいながら納得感を得ることがポイントなのである。
知識そのものも、その知識を使う自分自身も、その自分自身を取り巻いている環境も、
全てフェアかつ網羅的で望ましい大局観に立脚して、再解釈に再解釈を重ねればいい。
どうしても後ろ向きにしか考えられないとき、
「かばうこと」は、自分で自分の身と心を守るスキルであり、
自分で自分をケアする「後ろ向き加減を認めた、前向きな許可出し」の発想だ。
自分で自分をバイアスまみれにしてしまい、自分から負けに行くという状況は、
実は出来る範囲で解きほぐせば、必ず光明が見いだせる問題なのである。
ほんの少しの失敗に心理的ダメージを受けるくらいなら、もっと大局観でかばってしまえばいいのだ。
「やりなおす前」に全くの別分野を学んでいたとき、
ウィスコンシン大学マディソン校でPhDを取った教授に世話になっていた。
先述のG. E. P. Box氏が、同大学で教えていたと知ったとき、
ふと「あれ?そもそも、これってやりなおしだっけ?」と思ってしまった。
よくよく考えてみれば、ポジティブもネガティブもあったし、
近視眼的な中にも大局観を残していたし、失敗に囚われていたこともあったし、
いっぽうで「失敗から挙動を再び学べた」とも心底思えた。
結局は、やりなおすための創造性って、
腐らずに少しずつやり続けていたという話だったんだよね。