「権利のための闘争」の扱い方。

daily0 本音たち。

タイトルはイェーリングの著書のままだ。

そもそも、自由を獲得するための行動について、
今のところ日本では「尊いものだ」という発想がないことが問題なんじゃないかなあ。

古臭いブラックな組織の話も、
目下の政治の話も、
MeTooの話も、
自己責任ばかり先行することも、
結局は食い物にされている人がいることが一番の軸だよ。

「これ、実はどれも共通していることなんだよ」という視点が持てていないことや、
自由を得て保持することの尊さが全く話題にされていない。

アンチブラック企業ネタに食らいついても、
ウェブ上で政治的には真逆の立場のネタに食らいついてしまう。

これってね、
「権利を主張する前に義務を果たせ」
「自由はわがままだから自由なんていらない」
という、古臭い自己批判のような同調圧力で終わってしまうことと、まるっきり同じだよ。

解決策。
「権利のための“闘争”」という言葉に昭和臭さや汗臭さを感じてしまうなら、
単に「権利のための“自由の確保”」とでも言い換えてしまっていい。

ウェブで誰でも発信出来るようになった今でさえ、
未だに「保守と革新」や「右翼と左翼」から脱しきれず、
闘争ですらない“ケンカ”に矮小化されてしまうのは残念極まりない。

せめて最低でも、自由の尊重が前提に来ないと、
現代的な議論が始まらないんだよね。

boxcox.net、遠藤武。

遠藤武(えんどう・たける)
グロースハッカー。

↑詳しい自己紹介は上記リンクを参照。

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