「知識はすぐ役に立たなくてもいい、基礎に通ずることこそ面白さだ」
「知識が役に立たなければそもそも無意味、役立つことこそ面白さだ」
どこかで聞くことのある、相反するこの2つはいずれも正しい。
片方は理論物理学者や数学者や哲学者かもしれないし、もう片方は医師や法曹や教育者かもしれないし、あるいは経済的な成功者かもしれないし、一介の公務員や勤め人かもしれない。
ここで忘れてはいけないのは、これらの意見を持つ人が、どういう背景の持ち主か?ということだ。
それぞれが、知識を扱う上でのトレーニングである教育歴を持っており、それと引き換えに「偏り」を背景に持つのである。
ここで言う「偏り」は、高校や予備校で刷り込まれた試験対策特化型の発想もあれば、人文科学・自然科学・社会科学のそれぞれの分野で植え付けられた頑固な発想という場合もある。
何かを一方通行で学ぶ上で、学校にカリキュラムが存在する以上、カリキュラムが偏りを生み出してしまうのである。
何も、偏りがあることを敵視したいのではない。
一番大切なことは、「自分が腹落ちできる、面白くて役立つ発想や動き方を引き出すには、情報の発し手にどんなタグや価値観があると考えておけばいいか?」ということだ。
例えば「科学」と「歴史」のように、一見すると全然異なるタグがある。
小学生から慣れ親しんだカリキュラムに、純粋無垢にコロッと騙されていると「数学は数学、物理学は物理学。歴史を学ぶより自然科学のほうが重要」という、ありきたりで役に立たない発想から抜け出せなくなってしまう。
「科学史」の分野の本こそ、少し知識があるけど「落ちこぼれた!」と感じる人には、実はものすごく面白くて役に立つんだよね。