ただ単に「はい、自由にしていいですよ」と言われて、自由になれる人はいない。
かといって「さもなくば自由を奪ってしまえ」という発想は、人間であることに反する。
では、自由とはどのように成り立つのか?
このような問いが立ったとき、「ルールや指針に通じることで、自由を享受するヒントが与えられる」ことを意識するといい。
目先にある物事に囚われてしまい、キャパオーバーに陥る状態は、無駄を省くルール作りが甘いのである。自分が明らかに正しいにも関わらず、怒り心頭にさせられてしまう状態は、関わるべき場面や話題を選ぶルール設定がないのである。どうでもいいことに感情を引っ張られる状況は「時間と思考の使い方のルール設定が必要だよ」と知性に誘われているということなのである。
そもそも、ルールを知らない状況というのは、致命的だ。
スポーツであれば、ルール知らずはろくにプレーすることもできない。ボールの投げ方やバットの振り方はおろか、どちらの塁に進むかさえわからなければ、草野球すら成り立ちようがないのである。
振り返って、社会で生きることはどうか。
民法すら知らない状況では(最近では規則が整備されたものの)賃貸契約で退去時に知らずに不当請求を受けたり、不利な契約を結ばされたりと、目を覆いたくなるくらいひどい状況まっしぐらだ。
ルールを活用できることとは、自由と無法の違いを理解していることだと言っていい。
(補遺)
道徳ではなく、民法と複式簿記と哲学を一揃えで小学生から必修科目にすればいい。
お金の記録のルールを知ると、確実に算数が楽しくなるんだよね。