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群れる人と知識欲。

群れて自己顕示したがる人は、後を絶たない。

これは小さい集団で影響力を可視化しているに過ぎないんだよね。
あるいは、自分と孤独に向き合うことが心の奥底では怖いだけだ。

人の立ち居振る舞いや言動が小粒に見える場合は、目に見えて想定できる範囲のことにしか手を出せず、知識欲が足りていないというだけなんだよね。

敢えて小粒なことをやっている場合は、にじみ出るものがあるのでさておき、そうでない場合というのは、思考せず目の前の物事に群れ、得てして粗野である。

自分が、常に知識欲や知的好奇心を中心に据えている理由。
楽しかろうと辛かろうと、知識に逃げることで、どこかで自分と向き合うよう方向付けが出来るためだ。

そもそも、こちらからただひたすら問いかけてこそ、知識が群れをなし、必要な仕組みを照らしてくれる。

これがわかると、いちいち群れる必要がなくなるんだよね。

想像力。

想像力は、孤立の産物として、自由に出せるからこそ面白い。
誰かが似た概念を散文や韻文や数式で提示しているのか、先行研究は具体的に存在しているのか。
仮にあるとすれば、自分の想像との違いはどこか。

孤立しているからこそ、自分でこれらを掻き集め、黙々と探って形にする必要性と面白さがある。全ては自由意志で行うからこそ、ということだ。

この逆に「誰かに強いられた集団的な想像力」は、馴れ合いの産物に過ぎない。宣伝のために馴れ合いに巻き込まれていると感じたら、さっさと去ってしまおう。

宣伝や喧嘩やファッションの目的でアウトプットしている側は、発想や思考が目的ありきでしかなく、受け手を都合のいいデータ扱いして終わりだ。

そんな状況に、自分の自由を燃焼させる必要などない。

閑話休題。
質の高いアウトプットとは、先行研究を蒐集して照らした、個人の想像力(や経験)の一般化である。

先行研究の蒐集において、馴れ合いをへし折るような発想を持ち込むことも一つの手だけど、これはフワッとした馴れ合いに取り込まれないような仕組みやエネルギーが必要で、少々面倒だ。

まずは想像力を使って、形に出来ていなかった物事を形にし、シンプルに喜んでもらう。そんな素直な発想につなげたほうが、実は面倒ごとも包み込めるんだよね。

匿名。

どんなにアウトプットしようと、
どれほど質を上げて数を多く世に出そうと、
全くの匿名から、ふと出せる視点に勝てっこない。

そう思っておける余裕があるほうがいい。

もはや繰り返す必要も無いけれど、
きょうび広告・宣伝は思い切り嫌われる。

「お前向けにカネをかけて広告を作ったから、四の五の言わずに買えよ」
なんて言われたら、嫌になるに決まってるよね。

もっと言うよ。
コソコソと保身・ポジショントークに走る広告・宣伝だらけで嫌われることと、
真正面から素直に挑戦して「常識知らず!」とバッシングを受けることは、
言うまでもないけれど、全く異なる。

この区別は、見聞きする全ての物事において、
自分の視点で真っ先に区別しておこう。

これについて意見を発する際は匿名でも構わないし、
逆に意見を発さず、自分の脳内のみで言語化しておくだけでもOKだ。

言語化して知識を吸い上げられれば、
ポジショントーク程度で方が就くような物事は、
触れている時間すらもったいないと感じるようになる。

ふと出せるシンプルで素直な視点こそ、
何でもかんでも宣伝に走ろうとする今こそ、
実は価値が出る視点なんだよね。
この価値に匿名も実名もないよ。

寛容や自由に対し、寛容であることと、
不寛容や不自由に対し、不寛容であること。
難しいと感じるなら、これくらいから始めればいい。

匿名で語る自由は、当然のように存在する。

実名で次々と繰り返される特定の宣伝を、
匿名でもいいからふと放り出した素直な視点で、
上書きする自由は、当然のように存在する。

この自由を否定する意見は、
不寛容や不自由を煽るポジショントークだ。

繰り返すよ。
不寛容や不自由には、不寛容であっていい。
寛容や自由には、寛容であり続けよう。

自由で有り続けられて、
より納得が行くと思しきことを、知識から引き出していけば、
奇をてらわずとも自ずと抜きん出られる。

入口が匿名だとしても、
その先で自分の実名に自由と知性が跳ね返って来る。

このとき、実は匿名って相当メリットがあるんだよね。

YouTuberとVTuber

どちらの品質も今のところ、

かつてあちこちで流行っていた素人いじりテレビ番組や、

テレビまんが」と呼ばれていた時代のアニメと大差ない。
「視聴者やユーザーが、これからどれだけ成長するか」にかかっているというのが、大方の前向きな予想だ。

他方、圧倒的多数は、名出しでアウトプットする側もインプットする側も、
知的好奇心のないただの消費者に過ぎない。

ネットが普及すればするほど、素行の悪い大声大会が目立ち、
かつサラリーマンと変わらないムラ社会が露呈しているように、
知的好奇心のなさは一つの大きなパターンだと捉えることができる。

映画でもスポーツでもテレビでも、ハマり込んだごく一部の層はさておき、
圧倒的多数の消費する側は、退屈なパターンに落とし込めてしまうのだ。
この事実を前にして、誰が何を喜ぶか、誰がいつどのように飽きるかを考えたとき、
現状の「素人いじり」「テレビまんが」程度の品質から見ても、
今のところ既存のパターン通りの道を歩んでいるという状況である。

要は、ブログやSNSやオンラインサロンといった、既存のネット配信と大して変わらないということだ。
プロダクトやサービスの目新しさに、期待感を込めることは悪いことではない。

目新しいからといって、既存のメディアをウェブと小型化したデバイスを通じ、
軽薄短小にしただけでは、実は何も目新しくないというだけだ。
目新しさの中に、10年経とうと1,000年経とうとも、
ビルドし続けられる言語や知識があると強いんだけどね。

義務教育の公民。

全科目に苦手意識があり、一般的な公立学校が大嫌いだとしても、
義務教育で触れる程度の公民はパーフェクトに知っておこう。

始まりがどんなに低いレベルだろうと、
現代人の自由は、まずはここから開始して構わない。

働く上であれ、いろいろ本を読む上であれ、
「あれ?これって義務教育で言っていた知識と根本的に食い違ってるよ?」
「これ、義務教育の内容を曲解して、暴利を貪っているだけでしょ?」
「権利・義務の関係って、民法で扱うんだ。じゃあ公民の次に触れてみようっと」
などのように、指摘や行動ができるようになっていれば、
義務教育の公民は首席卒業レベルだと思って差し支えない。

義務教育の公民は、近現代の視点で最も大切な要素を、
理解しやすく活用可能な形でパッケージ化してくれているのだ。

要は、現代人が自由を享受し、かつ懐疑心を持つ上で、
一番わかりやすくまとめられたルールブックと考えて良い。

これと逆に、自由の享受がなかった時代の制度を上げて、
例えば「インドのカースト制度にも良さがあった」
など過去不自由を肯定するような発言は、世界的には即アウトだ。

血を流し、近現代に獲得した自由がある。

この否定とも取れる視点を、知識不足でポロッと出してしまう人は、実は少なくない。

制度や歴史や精神と向き合わず、
馴れ合いが好きな根性が染み付いていると、
偉かろうとそうでなかろうと、
このような失言の罠にハマってしまうんだよね。

大なり小なり、身の回りやニュースの事例なんかで、
いろいろ当てはめて考えてみると見えてくるよ。

内容そのものを触れ直すもよし。
少し背伸びをしてみて、
公民の次の分野(政治学・法学・経済学・ビジネスetc)に行くもよし。

自由な現代に迷ったら、まずは義務教育の公民から始めればちょうどいいんだよね。

世襲。

世襲や生まれという要素は、実のところ才能のひとつだ。
もし適切に教育されれば、という条件付きだけども。

一次情報から言ってしまうと、
世襲や生まれの背景という強さは、
「これくらい出来て当たり前でしょ?」
という怖いもの知らずっぷりが植え付けられる点にある。

生の入り口で、親や家庭環境から生まれ持たされた、
このふてぶてしさは、最初からメンタルブロックを排除してくれているのだ。

ただし、このような背景があるにもかかわらず、
周囲や世間に半端に流されてしまったり、
素行不良が治らない状態だと、真っ逆さまである。

「これくらい出来て当たり前」という視点は、
周りから持たせてもらっている成功体験の前借りであって、
この借りを返さないままでいると、その人は借り物人生一直線だ。

「あの人、生まれが良くて上手く行っているけども、どこか中途半端だよね」
そう感じる人は、この両極端を把握できておらず、
借り物一直線コースを走っているだけに過ぎないんだよね。

流されずにいるには、常識を徹底的に疑いつつも、
常識をしたたかに活用する、そんな両極端なバランス感覚が大事だ。

この要素は、単に世襲や生まれという背景だけでは勝ち得ない。

「自分には、生まれも背景も何もない」
もしそう感じるなら、本から「これくらい出来て当たり前」を注入してもらえばいい。
世襲や生まれの背景など、入り口は借り物なのだから、どのみち同じことだ。

もう一度だけ。

この入り口と同時に、常識を徹底的に疑いつつも、常識をしたたかに活用する、
そんな両極端から作るバランス感覚を、お忘れなく。

声が大きい。

普段から、やたらと声が大きいだけの層がある。

この本音は、頭の悪さを隠しており、反比例して気が小さいだけだ。

やたらと人前でうるさく喋る層も、

やたらとSNSに「かっこいい」「かっこ悪い」といった感想をばらまく層も、

知識をつぎはぎしてもっともらしく聞こえるように議論をする層も、

思い切り共通している点がある。

声の大きさや、しつこさや、素直でない立ち居振る舞いで、

自信のなさや知識のなさをごまかしているのだ。

仮に正しいことを含みつつ述べていても、

あちこちにごまかしのある表現や論旨が見え隠れし、

主張や構成の中途半端ぶりがバレてしまうのである。

こういう層は往々にして、自分で調べて判断する訓練が出来ていない。

そのようなトレーニングの経験が、中等教育までや教育産業にも、

大学入学以降にすらもなく、アウトプット品質管理がされていない。

自分と周囲だけの小さな世界で「私は変わっている」と思い込んでいるだけの、素人さんである。

このような層は、自由や権利や科学やビジネスを論じることなど、全く期待できない。

いちいちこちらが腹を立てたり、名指しで非難して売名に加担する必要すらもない。

見る人が見れば、実態はいかほどの基礎力があるのか(ないのか)が隠しきれない。

もはや、金銭的成功や知名度ごときでは、何も測れないのである。

ポジショントークを注意して見ておこう。

名前を削ってしまえば、別ルートで上位互換させるのはそれほど難しくないんだよね。


教育語り。

日本語圏での教育語りの本質は、ナラティブセラピーだ。

どんな層でも自分語りできる分野ゆえに、自分の過去を肯定するべく、

ナラティブセラピー化しやすい分野ということである。

教育語りの先行研究や前提。

教育史や制度設計や教育社会学や教育心理学や教育工学…あたりが求められる。

(予備校や試験対策は、このいずれかに組み込まれて観察される個別の事例に過ぎない。)

先行研究を用いる大学教授でさえ、このような知識の不足を、

バンバンやらかしてしまう例は数限りない。

先行研究を欠いてしまえば、議論と呼ぶには全く未熟である。

それだけ、個別的な事例のインパクトばかりが強く、知の前提が機能していないのだ。

知の前提として、リベラルアーツの枠組みを挙げられる。

リベラルアーツを端的に圧縮して言うと、哲学も宗教学も政治学も法学も数学や自然科学全般も、

「まずは古代(特にギリシア)からの流れを押さえて学びましょう」というまとまった視点だ。

近代を経て現代の入り口に進み、学問が日本語圏に輸入されるにつれ、ぼんやりとタコツボのように分化していった。

つまり、原理原則やインフラとして連続したリベラルアーツが行き渡らなくなった。

もっぱら個人の感情や経験だけで、前提の要件定義が、

なんとなく終わったことにされているのである。

実際は定義すらされていないのだけれど。

やがて教育語りは、個人の教育経験や試験対策に疲弊した人たちによって、

個人レベルのナラティブセラピー以外に、道を選ぶことが出来なくなっていったということだ。

知的体力がない状態が続けば、疲弊する以外になくなってしまうんだよね。

タコツボに逃げず、原理原則によって立てば、実は解決策は沢山あるんだけどね。

言語で包み込む。

思考を張り巡らせて素早く行動に移すには、

まず言語化してみればいい。

その際、暴言は論外として、後ろ向きで小難しい言葉でなく、

優しさがあり、気の利いたシンプルな言語を心がければいい。

そうすれば、物事を眺め下ろして包み込めるからだ。

ケースによるが、あなたの言語でナラティブかつ無記名で包み込んで仕舞えば、ほとんどは問題ない。

例えば、物事にコソコソとケチを付けているような群れは、

例えそれが退屈な集団のひそひそ話であっても、

例えそれが退屈なお山の大将とその信者の同調圧力による悪口だとしても、

こちらがいちいち名指しで同じレベルに降りてやる必要など一切ないのである。

このような精神的な自由を守れるビヘイビアは、

教育にいくらお金を積んでも知性や語学力が買えない。

組織に所属していなかろうと、お金があろうと、

サラリーマンと同レベルのただ群れている層は、

意外にゴロゴロ存在すると心得て構わないんだよね。

フィクションと想像力。

フィクションや文学に触れる意義は、想像力を押し広げることにある。
想像力が及ばないなら、知識から想像してしまえばいい。
知識が及ばなかったり、何が問題なのか想像もつかないなら、
フィクションで文学でも、史実でも、おとぎ話でも、先行事例からでも借用するといい。
仮にその想像や借用が、一般的でない非常識なものであったとしよう。
にもかかわらず価値を創ったり、問題解決を導いて誰かを救ったとしたら、
それは立派な創作や研究成果であり、かつ立派なサービスやプロダクトだ。
佳作駄作問わず、創作物に大量に触れ続けることの理由は、
思いもよらない想像や問題解決の材料に展開するためでいいんだよね。