「人のせいにすること」の扱い方

daily0 本音たち。

人のせいにすることとは、
要は「これ以上は自分では何も出来ないよね」
と考えた末の決断だ。

自分でロジックと知識を積み重ねた思考の先で、
「この部分はこれ以上できない。無理ゲーだ」と判断がつくなら、
あるいは「そもそもルールの前提が不利すぎる。面白くない」という説明が客観的に出来るなら、
人のせいにすることは悪いことでも何でもない。
(あるいは、ロジックと知識を積み重ねることの重要性を知る機会のなかった階層が、
機会の不平等を人のせいにすることは、納得がいく。公教育はここをサポートすべきだ。)

書店やウェブででよく見かけるモノとして、
人のせいにするな。とにかく自分が悪いと思え
という論調がある。これをそのまま鵜呑みにすることは危ない。

人のせいにしたくなるような状況には、白黒ハッキリできないごちゃつきがある。
それが感情の場合もあれば、一意に定めきれない状況でもあれば、相手と自分の知識不足の場合もある。
それらを押し殺してまで「とにかく自分が悪い」という二者択一の押し付けに従うことは、何も考えていないことの証しだ。

人のせいにするな。自分が悪いと思え」の論調が攻撃対象にしている、
「何も考えていない、ダメ人間のケース」と、これはどう違うのだろう。
この論調が正しいと即答できるのは、本当に初歩の初歩でしかないケースだけだ。

このように、「人のせいにするな。自分が悪いと思え」は、ロジックが大味で、思考を誘発するような発想とは言い難いことに注意しておくといい。

「人のせいにすること」をもう少しカッコよく説明しよう。

他人や社会・文化・科学など自分から見た外的要因の不備を的確に指摘することができれば、
それは分析力と判断力があるということに他ならない。
ここに勇気と優しさとユーモアと自由を加えて、行動力に活かしてしまおう。

現実解を出すとすれば、分析力と判断力を活かして、
「自分の良さを鍛えつつ、外的要因の不備を突きつつ、誰も言動にしていなかった現象を言動にする」
ことから、いろいろな物事を楽しむようにすればいい。

堂々と大声をあげてやってもいいし、こっそり黙々とでもいいし、ストレス解消がてらでもいい。
誰かのストレスを下げてしまうことに用いられる限り、楽しみを止める必要はない。

単に「人のせいにすること」から始まったとしても、
ロジックと自由を駆使してダメさ加減をプラスに使えるなら、
それは物凄くスカッとする話だよね。

遠藤武(えんどう・たける)
グロースハッカー。

↑詳しい自己紹介は上記リンクを参照。

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