「教育すなわち洗脳である」
という考え方が書店を賑わせている状況です。
これでは言葉が足りないので、もう少し丁寧に、
「公教育や義務教育は結果的に洗脳だ」
「試験対策で自己完結する教育は洗脳だ」
「組織の常識を承服させるだけの態度は洗脳だ」
と言い換えるのであれば、
この不合理を洗脳と言い切ることは概ね正しいと思います。
この発想は、何も突然湧いて出たわけでなく、イヴァン・イリイチの考え方を借りればいいですね。
イリイチは人間の本質である学習と進歩が、学校制度に奪い取られ独占されていることを告発します。この学校制度を逆倒させることで、コンヴィヴィアルな学習システムとして学習に必要な資源を互いに利用できる、学習のための網状組織に光を当てます。
『野麦峠に立つ経済学: あなたの本気が世界を変える』(島岡 2003, p52)
こんな訴えから、ソリューションが得られるんじゃないかな、ということです。
学習システムや必要な資源の相互利用は、オンラインで完結できてしまう今となっては、珍しいことではありません。
「コンヴィヴィアル(共に楽しむ)」だとか、「機会の網状組織」は、文字通りウェブの世界で手に入る発想でもありますね。
仮に、コンヴィヴィアルだとか、学習のための網状組織だとか、
今までであればアクセスしづらかった資源が手に入ったとしたら、
働くための視点やスキルや組織のあり方を、自分で設計できちゃいます。
とにもかくにも、既存のあり方って、機会は手に入りづらいわ、
共に楽しむなんて夢のまた夢であるわ、面白いとはこれっぽっちも思えない不合理さがあります。
ではこの不合理、法律がどのように影響を与えているのか、という視点から探ってみましょう。
教育基本法では、教育の目標が以下のように定められています。
(教育の目標)
第二条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
- 一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
- 二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
- (後略)
上記で最も「あれれ?不合理じゃない?」と見えてしまう点は、
「勤労を重んずる態度を養うこと」の言葉数が少ないという部分ですね。
この点、日本国憲法第二十七条の「勤労の権利」なのか「勤労の義務」なのか、はっきりしません。
労働者の養成や保護がしたいのか、勤労を通じて個々人が価値を作って自主と自律の精神を保つのか。
この曖昧さがごっちゃになったまま、何が言いたいのかが見えてこないわけですね(義務については諸説あるようですが)。
ここをもう少し添削するとしたら、
「個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を通じて得られる価値と自由と充足感を重んずる態度を養うこと。」
とでも書けば、合理的です。
もっとわかりやすく言えば、
「教育を通じて、能力と創造性と自主性と自律心を高め、その先で勤労をから価値と自由と充足感を得ましょう。」
ということです。
勤労という言葉が天下り的すぎて、教育と連携が取れていないので、
行間を埋めて連携を取ってみるとこんな合理的な視点が持てます。
教育を洗脳から遠ざけて創造性を鍛える場にするなら、これくらいやらないとね。