タイトルの通り、コダーイ作曲の『くじゃくによる変奏曲』になぞらえている。
短時間で描くとなると、線の粒度がどうにも細かくならないけれど、
描いて思ってみたことをフィードバックしていくことに意味がありそうだ。
特に動物を描くとなると。
描いてみることに興じているのには理由がある。
何かを書いて論じることは、
そもそも普段から日々行ってきているため、
とっくのとうに食傷気味だった。
それを上書きならぬ上描きしたかったためだ。
「本を読んだら自分を読んで書け」とか、
「とにかく何でもネタにして書いてみろ」とか、
そういう話題作りは巷にたくさん溢れている。
そんな層が「絵を入れると面白いよ」と連呼する。
その当人が絵なんて全然描かない割に、だ。
ということはつまり「読んだら描く」ような試みは、
そもそも珍しいのかもしれない。
「絵を全然描いていなかった人が、改めて絵を描いてみる」
「描いて書いて論じてみる」
ということには、希少価値がありそうだ。
描いていて面白いと感じる点が、ふつふつと出てくる。
そもそも、絵を描きたくて描いているのか、
自分を読むために「ただただ描く行為」に興じているのか、
線による記号を組み合わせて描写するレゴブロックのような遊びなのか、
そのどれでもあるのか、そのどれでもないのか…と、
何に重点を置いているのかが、よくわからなくなるところだ。
絵を描くことにハマり続けていたわけではない。
親に数多くの漫画の作品を刷り込まれたせいで、
絵を描くことにハマったものの、小学生のときに嫌になってやめてしまった。
(親もその友人の美術家さんも、とある作品の二次創作にハマっていて、コミケに出ていた。)
そこに悪気や悪意があったわけではないが、
当時から「大きなお友だち(という名の親)に勝てない」と刷り込まれ、
嫌になってやめてしまった。要は不自由を感じたためだ。
時が経って、そんなことを抜きにして自由に試してみたくなった結果、
古典やらクラシック音楽やら史料/資料やらを引っ張れるようになった。
『くじゃく』はそもそも、ファシズムへの抵抗として作られた曲であり、
そのモティーフとなったアディ・エンドレの詩も、
解釈や英訳から見える通り、自由の希求が浮き彫りになっている。
楽しく論じるように自由気ままに描いてみるのも、上書きならぬ上描きのあり方だ。
何のために描いて書いて論じるか、と問われたら、
今日びそのナンセンスな質問ごと「自由の享受のためにそうしているよ」と、
上描き保存してしまえばいいんだよね。