理不尽な挫折のタイミングは、10代終盤から20〜30代。
40代や50代など、遅くに挫折すると再起不能になりがちなのは周知の通り。
かといって、10代前半や中盤などあまりに早いうちに挫折すると、更に再起不能になる。
現実解。
10代前半や中盤に挫折して再起不能になるのは、平たく言えば家庭環境のバランスが悪いためである。
まともな大人であれば、過度な競争に駆り立てられることが不健全だとわかっている。
競争とは自分との競争であり、他人との競争は結果論に過ぎない。
少なくとも元服のタイミングである高校受験の年齢を過ぎる前までは、
競争に見えない形で物事に取り組み、等身大で世の中との接し方を知るほうが先なのである。
ひどくいやらしい話をしてしまうと、東京23区の谷根千という空間で育った身であり、
作家さんや美術家さんやほか教育水準が高く教養ある大人に囲まれて幼少期を過ごした立場としては、
競争があっても大人から手厚い素直なコミュニケーションがあった人と、
いたずらに競争に駆り立てられて大人からコミュニケーションなく放置された人の違いが、
家庭環境含めて容易に想像できてしまう(自分はずっと前者の側だった)。
いたずらに競争に駆り立てられた人は、極めて高い実力や知能を誇りながらも、
破戒僧のようなアウトロー的な立場に転じて、底辺落ちしてしまう。
どんな暴君であっても、ことばの文法という究極の法に逆らってしまえば、
実りある対話が出来ずに誰も王様だと認めてくれなくなってしまうように、
コミュニケーション不全は、せっかくの能力を台無しにしてしまうのである。
立派な場所に土地を持ちながら、草ぼうぼうで荒れ放題というような具合に。
個人的にはそんなアンバランスな人は嫌いでなく、むしろ好きなのだが、
このアンバランスは文字通り家庭を軸としたコミュニケーション不全ということだ。
「中高一貫、男子校、理系はコミュニケーションの三重苦」
そう言ったのは劇作家の平田オリザ氏だ。
谷根千で自分の周りにいた大人も、同様の視点を異口同音に持っていたと強く記憶している。
これは中学受験と男子校と理系が悪いのでは決してない。
そのようなルートを辿るご家庭の環境に、
「試験だけどうにかなればいい」という程度で発想が止まる、
コミュニケーション不全があると捉えれば、腹落ちできる。
コミュニケーション不全ということは、言語運用能力が自ずと低くなり、
英語はペーパーテスト以外はからきしダメ……という、少し前の日本の伝統も説明がついてしまう。
追記。
挫折に限らず、成長する過程には人と人とが触れ合うコミュニケーションが付き物である。
これはプラトンの対話篇の時代である古代ギリシアから続く伝統だからこそ、
芸術でも学問でも技術ばかりに目を向けることが「アルテス・メカニケー」であり、
自由な市民の「アルテス・リベラレス(リベラルアーツ、自由人の学芸・教養)」ということだ。
主人公が内面的に成長する物語を「教養小説」と呼ぶが、
挫折から立ち直る過程こそ人を自由にする。
挫折のタイミングが10代前半や中盤のように早すぎると、
心の内面と、外の世界の区別がつかず、一生にわたって素直さを欠いてしまうんだよね。
もし後からこれに気づいたなら、まずは基本に立ち返って、今の年齢で虚心坦懐に出来ることをじっくり腰を据えて実行するしかない。
逆に言うと、タイミングの良い10代後半や20代30代の挫折は、必ずどこかで誰かが本の中で解決している。
追記の追記。
「今までたまたま生かされてきたからこそ、今この瞬間を生きているのだな」
と、ありがたみを噛み締められるなら、
その瞬間が一番若々しいと言っていい。
雀の涙程度の、なんとなくの有り難みで構わない。
10代だろうと、40代50代だろうと、80代90代超えだろうと、
生まれて生きながらえていることは偶然の産物であり、
そもそも「有ることが難(かた)い」という、
難度の高いことなのだから。
boxcox.net、遠藤武。