月別アーカイブ: 2018年8月

「シェア」の扱い方

気づいていない物事をアドバイスしたいなら、シェアしてあげるだけでいい。

教え込んだり指導したり怒りをあらわにしたりと、話し手の意思で伝えるのは、無駄な努力だ。
教えたがりや怒りたがりは、インサイトを出すのでない限り、放っておいていい。
シェアする意図と、インサイト。この二つを欠くのであれば、
どんなに目立とうとも、それは鳴き声と変わらないんだよね。

「未完成」の扱い方

完成形が見えているけれど、

解答例が一般に存在しないものなら、

未完成のまま少しずつ自分なりのハイペースで作り込めばいい。
コストさえクリアできれば、リターンはいくらでも出せてしまう。
その際、インテリジェンスや学術基礎を何より徹底重視しつつも、
インテリジェンスや学術基礎を敢えて全否定してみる実験も忘れずに。
インテリジェンスと学術を入口で重視できない状態だと、
完成しているフリをする誤魔化しの行動に消耗してしてしまう。
インテリジェンスと学術をどこかで敢えて全否定してみる実験をしないことには、
失敗からブレイクスルーを作るきっかけを自分から逃してしまう。
本当にやりたいことは、身勝手で独善的な感情をどこかで肯定してあげないことには始まらない。
こうやってインテリジェンスの裏表を扱うことなしには、
未完成ではなく惰性でしかないということなんだよね。

「稚拙」の扱い方

学術書で思考を鍛えたならば、学術書では確実に見かけない稚拙な議論こそ、

実は自分なりの見解を引っ張り出すための素朴な問題提起になりうる。
明らかに下品な炎上狙いだったり、意図的に知識を欠いた悪質な論法こそ、
知識や論理や心情で、いくらでも昇華できる素材ということだ。
苛立ったときこそチャンスという発想は、稚拙なものが流行っていればいるほど、有効なんだよね。

「自己啓発」の本音

自己啓発とは、実は他人に影響されるというだけのことだ。

自分で何かに気づいたように見せかけて、
他人の思考パターンを借りている状況に他ならない。
「なんだ、ただの猿真似か」と思うかもしれないが、
その先で自由に自己決定権を行使して、楽しく生きられればそれでいい。
思考の借用だろうと、そうでなかろうと、
非常識から自分で自前の常識を組み上げてしまえばいいのである。
要は、少しずつ間違えながら猿真似を繰り返して変化遂げていくと、
丸コピーでない思考パターンに辿り着けるということだ。
迷った時は、思い切って常識を踏みはずして少し間違えてみると、
自分自身の再発見につながるんだよね。
こういう発想が「自力で行う、誰かの丸コピーでない自己啓発」なんじゃないかな。

「綺麗事」の扱い方

99%は近寄れない、でも1%のたまたま準備が出来ていた人に、
スルッと届いてしまうような、そんな綺麗事が大事なんだよね。
じゃなければ、何もやっていられない。

「どうせ綺麗事なんて意味がないから言わない」
というのは、思考と妄想をする権利の放棄だ。
人間に生まれて、こんなにもったいないことはない。

お金で買える物欲程度ではない本当に渇望していた物事や、
まだ誰も見たことのない発想や景色を、
一切求めなくなるというのは、精神的には奴隷と同じだ。

思考実験する上で、文字通り目先のことばかりに囚われてしまうことになる。

現実と綺麗事を行き来するからこそ、
どちらも面白くなるんだよね。

「メディア叩きをする人」の扱い方

マスコミについて、

「報道しない!隠蔽だ!偏向報道だ!これだからマスコミはダメだ!」

と簡単に言って叩いてしまうのは、単なる知識不足だ。

個人メディアだろうと、何も変わらない。

「メディアや発言へのヒト・モノ・カネの流れ」

を的確に捉えて扱わないことには、

叩いていることにすらならないためである。

「発し手へのヒト・モノ・カネの流れ」を探らないでいると、

単なる大手マスコミ叩きで満足しちゃうんだよね。

報じる内容と報じない内容、発言する内容と発言しない内容があるのは、

個人メディアだろうと、科学者だろうと、大手マスコミだろうと、

自分の営業トークでしかなく、あるいはスポンサーへの配慮が働いているというだけだ。

知識層ではないB層は、これを理解せずウェブで暴れているだけなのでさておき、

とりわけ自然科学を生業とするような知識層は、ウェブにおいても、

「ヒト・モノ・カネの流れ」というデータセットには極めて無頓着だ。

「ヒト・モノ・カネ」の情報こそ、ビジネスはもとより、

研究含めた全てのプロジェクトの運営・経営を取り巻くデータドリブンの軸だ。

(この点にもっと意識を向けるだけで、研究者はあっさり経営が出来るのだけれども。)

メディアに話を戻せば、広告収入のある個人や企業なのか、

月額課金で運営しているのか、どのような人がどのような報道や情報を扱うのか、

まずはそれだけを問題にしてみるだけでいい。

実はこれは、事業や研究のプロジェクトや、

投資内容の内側を探ることについても、

全く同じことが言える。

都合の良いことをテレビや新聞で報じてもらって感謝し、
都合の悪いことをテレビや新聞で報じないと「マスゴミ」と怒る、
市井の人も政治家も、こんなメディア大好きっ子であれば何も探れないことは確かだ。

「楽しさ」の扱い方

「楽しかった」
で物事を終わらせてしまっては、
公立小学校の生徒にありがちな1分間スピーチ止まりだ。

それが気晴らしだからなのか、
心底自分のプラスになったからなのか、

まずは自分で物事を定義づけ、
心の挙動や、楽しいと感じた対象の特徴について、
ひとつひとつ解釈やストーリーを加えて行くと良い。

敢えてデタラメに解釈して、
もっと楽しくしてしまっても構わない。

これを繰り返すだけで、
一人でブレインストーミングができるんだよね。

「つらさ」の扱い方

どうしてもつらいのなら、
心と身体とお金やモノを搾取されない形で、
何かにハマり込んでしまえばいい。

何かを心底学ぼうとしてハマっている限り、
少なくともつらさから桁違いの投資回収が出来る。

敢えてつらさに飛び込む必要はないけれど、
何かに仕返しするようなゼロサムゲームの発想では、
つらさを一時的に隠すことはできても、
得られるものは額面通りの思い出ばかりだ。

逆に言えば、つらさから仕組みや創作や発想の転換が出来てしまえば、
それは多くの人にとってプラスとなる発明や作品になりうる。

心の片隅に、妄想や想像のような希望を生々しく残しておくだけで、
実はそれを素直に実現したがるような、
そんな熱中を生み出すことが出来るんだよね。

「年功序列」の扱い方

年功序列とはネズミ講のようなものであり、格差を生み出している。
2006年にそう指摘されて、10年とちょっとの時が流れた。

これは今となっては、
「管理職・平社員の関係は、ネズミ講のような騙しの階級である」
と言い換えられる。

転職市場で「上級管理職として扱われるシニア層」のスキルが、
必ずしも「中間管理職手前のジュニア層」より高くないと、
経営者が隠しきれなくなってきているということだ。

この原因は、経営者が勉強不足であるために、
組織が古臭いまま生きながらえているということに他ならない。
固定費の非効率的な(=投資とは言えない)扱い方の放置ということだ。

ようやく最近になって、
「フラットな組織」「自動化や外注でコアバリューに集中する組織」
がもてはやされている。

その割には、華々しく出てくるスタートアップ企業の圧倒的多数が、
付加価値のない事務処理作業や、管理職・平社員という関係を内製化し続けている。

フラットと言えない「昭和の組織」を平成末期の今でもなお作りつづけているのだ。

つまり、今も昔も経営者に「何が付加価値か?」を根本から問う発想が欠けているのである。
旧来の組織の人事評価にかかるコストとベネフィットの不合理を、全く理解していないということだ。

人事考課や与えられたポジションの通りに、人が動けるとは限らない。突然ダメにも良くもなる。
そもそもポジションの高低を客観的に定めることなど不可能である。実態は恣意的になる以外にない。
そして、これらをいかに定めたところで、どこまで利益とキャッシュフローに貢献しているかを把握できない。

この問題の解決策は、以下の3つだ。
・コンサルティングファームやそれに準ずる組織に所属する/作り変える。
・スタートアップ組織のメンバーになるチャンスを得る/スタートアップ組織を作り続ける。
・複数組織に属して(あるいは組織に属さないで)多彩かつ柔軟に動く。

圧倒的多数の人にとっては、行動しなければ騙され続けるしかないのが現状だ。

「経営者目線」という発想を、もし労働者から持つとすれば、
投資対効果という視点に尽きると断言していい。

古臭い組織も、その経営者も、思いのほかあまり物事を考えていない。
これは米国だろうと日本だろうと、上場していようといまいと同じだ。

ここに序列を根本からひっくり返すチャンスが眠っているんだよね。

「愛国心」の扱い方

そもそも義務教育の内容すらまともに理解できず、
大学での高等教育や研究内容すらろくにアクセスせず、
特定の政治家や利益集団に頭を下げるだけの愛国心とは、
まともな現代国家からすれば、落第生のたわごとに過ぎない。

まずは、自分の自由意志で知的生産して行動するための最低要件を揃えよう。

自分の頭と知識で判断できるための姿勢を保つことで、
「これ、誰かに言わされているだけじゃないかな?」
という懐疑心を持ち続けることが、何より先にすべきことなんだよね。