「学力」って、教育産業のマーケティングにしか使われていないよね。
結局は知的生産のレベルの階層化でしかないんだよね。


そもそも、学力の先にある「アカデミックスキル(特に、書くことと議論すること)」が司る知的生産は、
偏差値や試験対策のカバー範囲外であり、模範解答を用意して点数化しようがない。 
(当事者である日本語圏の教員や教育産業従事者や大学教授の大多数は、このことから目を背けているよね。)

いっぽう、学生の側も大人も、大多数は教育産業のマーケティングの成果に目が行ってしまう。
悲喜こもごもの大多数の一方、学問の中身を問うことができるのは、
おおよそ上から数えたほうが早い少数の人たちばかりという状態に。
(当事者である日本語圏の教員や教育産業従事者や大学教授の大多数は、このことからも目を背けているよね。)



教育学のトピックでもある「測定と評価」は、きれいごと抜きにすれば社会的には機能しておらず、
大学や学問の外でのマーケティング用語ばかりが先行して、学問が語られて(騙られて)いる状況だ。
 (このことにも目を背けているよね。)


学びの先に据えるものは「知的自由を獲得すること」だけである。

「自分の人生にプラスになる良い勘違いと間違い」
「知識回収の入口である動機づけ」に活用できれば、それでいい。
学問上の系統性の入口にたどり着ければ、それでいいのだ。

学部入試問題程度の差をカバーできず、学生のマインドや品質について、
格差が出てしまうことが、そもそも大学の学問として大きな誤答なのである。


大学の側が「マーケティング用語としての学力」に押し負けている状態は、
学力不足どころか「大学の力不足」なんじゃないの?としか思えないよね。