「それ、本当に自由を行使しているの?」
そう言いたくなる職業選択の自由の行使は、少なくない。
フリーランス、ノマド、地方創生、バズる、広告、メディア・政策・環境・学際専攻…上記の「自由に見せかけて内実は不自由な、新しもの好きな人」が好む単語だ。
基礎がなっていない層だけで、新しいものを相互フォローするだけの「見せかけの職業選択の自由」は、却って実力不足による不自由を招く。
「否、これは等身大の声だ。自分たちは自分たちの中で上手くいっているからこれでいい」
そう繰り返し言えば、聞こえは良い。
しかしながら、
・洞察や怜悧さや基礎に欠ける点
・基礎のないお山の大将をフォローする点
・往々にして付加価値や知的水準や報酬が高いと言えない点
は、こういった層が蛇蝎のごとく嫌う「昭和臭のするサラリーマン社会の残骸」と同じものでしかない。
(ネットが登場する以前の、大衆向けメディアや芸能業界も、これとさほど変わらない。)
(ネットが登場する以前の、大衆向けメディアや芸能業界も、これとさほど変わらない。)
自由を保つことを、小中学生のころから万事徹底し続けてきた自分としては、新しい動きには十二分に共感できる。
だからこそ「ウェブを通じたテンプレート式の自由」を、冴えないサラリーマンのワンコインランチのごとく、ただ消費するという発想に至りようがない。
職業選択の自由とは、ある種のガストロノミーなんだよね。