社会で取り扱われる物事や、科学や文化への無関心は、識字能力がゼロであることと同じである。
義務教育程度の物事について「難しくてよくわかんないし、考えるのが面倒だから興味ないや」と、いつも通りの慣れた口調で発言したとしよう。
それは、世の中に対して自分が持つ発言権を、自分から放棄していることに他ならない。この発言権とは、「基礎知識に根ざした読み書きやコミュニケーションを通じ、考えを形にして、社会に自由に参加できる権利」と力強く言い換えたい。
面白がって鍛え続けていないと、知識は簡単に錆びついてしまう。考えを形にしようとも、観察眼がフシアナでは何もアウトプットできやしない。
錆びきった先には何があるか。
文字が読めても世の中の基礎知識はからっきし無く、字を書き取りできても文章で主張はできず、事実上の識字能力はゼロになりかねない状況だ。
このとき「社会に自由に参加できる権利」は、どこに力強く存在するのだろう?
この現象は、高学歴層にも同様のことが言える。「学んでいるにも関わらず、先行研究や先行事例を取りこぼしていた」という状況が、ここに当てはまる。
バイアスを極力排除し、何が本質かを見極めることをしない・出来ないのでは、高学歴の意義なんてどこにもない。
面白がって考えを形にするには、日々の観察眼と興味関心が全てなんだよね。