習慣化とは、やるべきことを無理強いしようとする猿知恵だ。
面白さや腹落ちやカタルシスに根ざした中毒性を伴う習慣でなければ、大義名分も美辞麗句も、心とカラダを傷つけてしまう不義理や罵詈雑言や暴力でしかない。
とりわけ「学習習慣」は、いやいや勉強させられる子供に対して押し付けられる。あまり勉強せず頭も使って来なかった、コンプレックスまみれの大人が、ろくに考えもせず負のスパイラルを子供に押し付けているに過ぎない。
こんなコンプレックスを抱く人にとって、この「考えてこなかったこと」の再生産は辛い事実かもしれない。
だが、幼少期からの従順な習慣付けの末、一定の目の覚めるような実績を出した人も、少なからず同じようなコンプレックスを抱く。
これはなぜか?理由は単純だ。おためごかしの習慣化で得た知識や経験は、本当に心底楽しんでいる物事の前では、何をどう頑張っても霞んでしまうためだ。
このとき、論点は「学習習慣」とか「教育水準」という、目先の物質的な仕組みの範疇にはない。
「ものごとを楽しめる素直な環境」という、心地良さの有無に絞られる。
心地良さを無視して、習慣化ばかり追い求めるとどうなるか。労多くして功少ない「ありがちな自己啓発や押しつけ」から抜け出しようがなくなる。これには十二分に気をつけると良い。
他方、心地良くなれる心とカラダのスペースを着実に広げてさえ行けばいい。「いつのまにか習慣化できていた」という状況にこそ、価値があるんだよね。