教える側が中途半端だと、教育は退屈だ。
そもそも、疑うためにこそ知識を活用するのであって、
教える側の都合でカリキュラムが定まるのでは本末転倒である。
日本語圏の「教育」と名のつくものは、試験対策や学校教育の域を出ず、
懐疑や知的生産や議論の下地はほとんど用意されていない。
これでは知的生産はおろか、人格陶冶など夢物語でしかない。
教わる側が抜本的に考え方や生き方を変えてしまうくらい、
強烈でシンプルな効果こそ、教育が本来発揮すべき要素なんだよね。
古今東西の知識人や賢人が、どんな作法や書物や分野や先行研究から学んだか。
現代では何が話題として生き残っており、何が未だ言語化されていないか。
現代の日常生活とどれだけ距離があり、どのような類似点があるか。
……といったように、知識に基づく疑い方の繰り返しで、退屈知らずの深遠さを得ることが出来る。
リベラルアーツのあり方と言っていい。
正直言って、これを一度経験してしまうと、便利かつ飽きないので、もうやめられない。
もっとこういった教育が増えたほうがいいのに、と切に思う。
..遠藤武