問題解決が可能ということは、そもそも、
材料や前提条件が見えているということである。
問題解決だけでどうにもならないような問題というのは、
そもそも、材料も前提条件も、見えているようで、
ほとんど見えていないのである。
これを「染み付いたクセで無意識に目を塞いでしまっている」と仮定しよう。
このとき、誰かになりきって、出来る範囲で言葉遣いを変えたり、
読む本の趣味を一切変えたりして、今の自分にはない状況を演じるのである。
だいいち、自分が自分であることを純朴に信じ込んで、
自分の声なき声や想像を黙らせてしまうほど、人間の思考は単純ではない。
演技や詩歌から感銘を受ける程度の感性があるのならば、
自分の声なき声を言語化して、物事を再発見するためにも、
文芸的な「なりきり」から、発想を借りればいいのである。
合理的な発想に溺れ、なんとなく目の前に浮かんだ不快感を、
そのまま不快感と受け取って放置してしまったり、
勝手に恐怖におののいて騒ぎ立ててしまうというのは、
中途半端な論理から非論理的な何かを招いていることに他ならない。
そもそも、非論理的で不条理な想像力から論理を積み重ねることは、
立派に論理的な営みであり、ストーリーテリングには欠かせない。
問題解決だけでどうにもならない問題は、
材料や前提条件を作ってしまうことが鍵である。
まずは自分自身の少し気恥ずかしい声なき声に耳を傾け、
勇気を出して虚心坦懐にそれを言語化するだけでいい。
そもそも、これは通り一遍の知識ではないのだから、
勇気なんて大それた言葉に頼らず、もっとカジュアルに試したほうがお得だ。
どうせ気恥ずかしいなら、内心くらいは堂々と恥をかいたほうが面白いんだよね。
..遠藤武