いろいろな捉え方があるだろうけれど、
原理原則は、自然にも科学にも文芸にも趣味にも触れ、
身勝手やエゴ頼みや画一化に陥らず、
自由かつ前向きに過ごしている人のことを指す。
要は、知性と行動と懐疑を伴いつつ、
思い切り遊べる人であると捉えればいい。
知識を楽しく回収し、懐疑して、
知的生産の材料にするという意味において、
そのとっかかりの、自発的な詰め込みを否定するつもりはない。
仮に強引であろうとも、自発性があるのであれば、基礎を形作る。
ただし、イヤイヤ宿題漬けにさせたり、
イヤイヤ進学塾や予備校に通わせたり、
嫌でなくとも、模範解答を即答するだけで終わってしまうのは、
どちらかと言わずとも、身勝手やエゴ頼みや画一化の側だ。
表面的には、そういう層がエリートと呼ばれるが、
そこでは本人の環境づくりが無視されたり、
教育サービスを購入するだけだったり、
あるいは品質管理だとかISO9000の半端な真似事で終わる。
これでは、単にメディアや常識に踊らされた、
よくある消費者の姿でしかない。
そうやって消費しかできないのであれば、
消費財を作る側の意のままになるしかなく、
どうお世辞を言ってもエリートだとは言えない。
「親の言うことをある意味で聞かない」ことと、
「基礎知識は徹底して集める」ことと、
「そこから元気にストーリーを作る」という、
けっこうタフな矛盾に直面することが、
そもそも必須なんだよね。
..遠藤武